うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガとカルトと多校展開、SNS検索の時代

ヨガとカルトは相性が良く、有名なオウム真理教アレフだけじゃない。

以前そのヨガ・チェーンが都内で店舗を増やし始めた頃に、こんな日記を書きました。

 

もう12年経つんですね。どのチェーンかは、以下の専門サイトで「ヨガ」と検索したらわかります。2009年の記事が出てきます。

スマホで見ている人は、画面一番下の「ウェブバージョンを表示」で表示された画面に検索窓があります)

 

 

多店舗・多校展開でネガティブ情報が見つかりにくい

ウェブ検索のアクセスはほとんどが1ページ目までなので、気になったヨガの学校や教えを検索し、3ページ見ても悪い情報が出てこなければ怪しまない。そういう人が多いです。

悪いニュースを奥へ引っ込めたければ、多店舗展開をすればクリアできてしまう。1ページ目しか見ない人には、10店舗まで広げてしまえばじゅうぶんです。

 

 

SNSで検索する人は、そもそも気づけない

さらにいまの時代は、Google検索をしない人が増えています。

SNSのアプリの検索窓で検索をする人は、関連検索ワードや集合知の仕組みから離れています。

Google検索をしていれば、関連検索ワードや予測検索に「詐欺」「高額」などのキーワードが出てきて「おや?」と思うこともあるのですが、そういう機会もどんどん減っています。

カルト的なやり方をする組織にとって、Google検索をしない人が増えるのは、環境として追い風です。第三者からの検索キーワードの影響を受けずに、内部の人がその教義のメリットをポジティブに発信した情報が前面に出るようになります。

 

 

行きたい人は行ってしまう。のどが渇いていたら飲んでしまう

ここまで書いておいてなんですが、行きたいと思った段階の人のことは、カルト的だと気づいていても、外からじゃ制止できないというのがわたしの実感です。

 

行きたいときには、心はもう渇いています。

飲み物を持たずに思いがけず長時間ジョギングをするようなことって、初心者ならあることです。気がついたときには渇ききっている。

自分の心の渇きを認識するのって、経験がいります。恥ずかしい思いをするたびにそれを打ち消そうとする自分の心に向き合う、小さい凹みをたくさん乗り越えるスクワットのような経験が必要です。

 

 

おかしな熱量の瞬間は、日々あるもの

わたしがこの渇きを観察していて思うのは、自分の心の熱量にはアップダウンがあって、そのアップの時と心の渇きが重なると、「おかしな熱量の瞬間」になるということ。

なにか新しい義務を求めるような動きをするのがこういう時で、こういう瞬間って、当たり前の日常のなかに、けっこうあるものです。

この「渇き」と「エネルギーのアップダウン」は別のもの。その重なりや配合を観察できるようになるのが瞑想による効果で、それは湿度計と温度計を得るようなことです。

学びと実践と経験がずっと並行しながらあって、やっと自分の言葉が見つかっていきます。

 

おかしな熱量のバリエーションについては、以前書いたことがあります

 

 

ローカライズと契約・商慣習の問題

これはわたしの考えですが、生活に必要な携帯電話でさえ、2年縛りなどをやっている。そういうことで感覚を麻痺させられている状況も、カルトの入り口を作る遠因になっていると思っています。

携帯電話の場合は、端末(物質)とボリューム・ディスカウントで契約期間を縛り、その契約から抜け出すのを面倒にさせます。契約の面ではこういう日本の商慣習の延長のように見せつつ、長期的な学習という名目で精神のコミットメントを生み出す。

この手法とヨガは相性が良いです。精神性を扱うのでね。

 

 

人生を変えたいという欲望がどこから起こるのか。

自分に訊ねる癖をつけないと、この世は誘惑でいっぱいです。

自分に訊ねる癖をつけることから解放されたい人にとって、決めつけてくれる教義はありがたい存在。これもまたひとつの自然なので、別のハマれる社会の枠組みが必要だと思っています。

数年前の有名な小説『コンビニ人間』は、わたしはそのことを書いていると思っています。カルトにはまらないひとつの予防接種的な提案として、おすすめの小説です。