うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

セクトと反セクト法

今日は昨今話題になっていることをきっかけに思っていることを、まとまりなく書きます。
マインドコントロールとかそういうことについて考えるときに、社会のことも一緒に少しだけ考えてみましょうか、という問いかけのような日記です。


ヨガは呼吸法や瞑想をやってみれば心が落ち着いたりするし、アーサナをやれば血流がよくなって気分がスッキリするものなので、それに後づけでいわゆるカルトっぽい展開になる事象というのが昔からある。
ヨガはとりわけ「そうしやすいパッケージ」になっているので、そうなりやすい。
仏教だとマントラ、呼吸法、瞑想あたりまでが重なり、儀礼的なものも含めたアーサナと重なるものは、武術全般がそうだろう。動きにフォーカスすれば、スポーツ全般が重なる。



潜在的に「自分の変化をドラマチックなものとして捉えたい度」が高い状態でヨガにハマると、まあたしかにあぶないだろうねというのは、なんとなくわかるという人が多いだろうし、わたし自身もそういう潜在意識に気づいたことで、逆にそこに注意をし続けることを目的に続けているようなところがあります。



話を戻します。
日本は宗教やそれに似た精神的な活動に対して「あやしい」と感覚的に言いやすい環境で、語感的にも「シューキョー」という感じで単語を使っている時点で、精神のはたらきと社会の動きを紐づけて見るということがちょっと苦手か、「かかわらないほうがよい領域」であることを嗅覚的に感じて避けますね。
その苦手さは、「和の心」「奥ゆかしさ」などと近いところにあるものなので、黙っておけるならそれでよいと思います。



「うーん、でも」と、いろいろ考えることがあるならば、「セクト」という単語と、フランスの「反セクト法」について少しだけ知っておくと、考えることの助けになるかもしれません。


たとえばいま有名なタレントさんの周囲で起こっていることについては、

セクトとみなされるべき基準』の
「生まれ育った環境との断絶の教唆」
あたりが関わっており、


セクト指定の判断基準』のなかでは
「財産の接収」
のあたりでしょうか。
じわり、じわりと「犯罪」の定義を明確にしていこうとする取り組み。



フランスとインドはわたしのなかで「哲学の国ツートップ」なのですが、インドじゃ根深すぎることを、フランスという国がやっているのが興味深いところです。
どこまでが文化で、どこからがセクトか。



日本の「神道」も第二次世界大戦時にはセクト扱いされたそうです(Wikipediaの「セクト」より)。


「ワオ。元旦にみんなおみくじにお金を払って、しかも、木に縛ってる! 」


という感じでしょうか。(妄想です)
神道の例にはびっくりしたのですが、これはひとつ、「法を使って操作したいことがあったかもしれないこと」の例です。



セクトについてのまとめを読んでいると、自分がもんやりと考えるよりも先に、多くのことが考えられている。
こういう一生答えの出ないことを、現象として見ていく。
傍観するわけじゃないけど、踏み込みにくい。なぜなら・・・の先を自分なりに考えてみる。



「人に迷惑をかけてはいけません」という概念で閉じていくことと、「可能なかぎり、許していけることはないか」と開いていくこと。



日々のことも、まったく同じ。
疲れているときは閉じがちになってしまうけど、少しでも元気なときは、開くことについて考えることをしよう。
こういうことが、自分を立たせる、守ることなのかもしれないです。