うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

あまり強く誘わない理由


わたしはなにげなく「ヨガをやってみたい」という話をされたときは、基本的にヨガジャーナルとかヨガルームとか、スタジオの検索サイトを案内します。続けやすいところでやるのが一番なので。これは、「場に人がつく」という考え方。


「人に人がつく」パターンはものすごく古典的なグル弟子の関係なので、すごく昔の価値観にまでさかのぼれば王道です。こんなわたしでも「あなたからヨガを習いたい」といってもらえることもあり、それはありがたいことなのですが、そこに条件のようなものが添えられたときには、基本的に「みなさんに共通でご案内している内容を読んで、来れるときに来てくださればいいですよ」とお答えします。
「こうしますから、どうぞおいでください」というようなことはひかえています。



 ヨーガ的には、あなたのボディもマインドも、神に与えられたもの。
 あなたとわたしがつながることよりも、あなたとあなたがつながることのほうが重要なんですの〜。



ということです。
「この人にここでグイッと強く誘ってもらえたらできそう」というきっかけは、表面的にはかんたんにできますが、長い目で見ると避けたほうがいいこと。「自我」がマインドとボディを低く見ている状況でヨガを始めて、そこで「あなたのおかげ」といわれても、次の段階はありません。魔法の杖のようにご指名いただいても、わたしはそこ(あなたの漠然とした理想)に力を貸すことはできない。
そんな力はない。というか、
そこに力を貸すことができるとわたし自身が思うことが、カルトのはじまり
のように思うのです。



そういうこと(気後れするマインドを克服する)を学ぶためにヨガをするんじゃないの? というのが、一般的な(自己啓発書がよく売れる)社会での考え方なのだろうけれども、そういうことまでケアできるヨガを提供するためには、医療法人や宗教法人のような組織形態の中でクラスを設定しないと、資金面で回りません。というのが日本の実社会。(インドの場合は別。後で述べます)



「ヨガのマーケットは広い、ちょっとやってみたい人はたくさんいる」というのは、インストラクターになりたい人にとっては夢のある話だと思うのだけど、実際そうかな? 「やってみたい」気持ちが「ちょっと」で留まっている理由は、実はそんなに単純ではないように思うのです。
ヨガを「やりたい」と「やりたくない」の間には、きっとこんなグラデーションがあります。

  1. やってみたい が やらなくてもいい よりも少し多いと感じたのでヨガを始める(Sattwic)
  2. やらなくちゃ が やってみたい よりも多いなかで、たまたまヨガをする(Rajasic)
  3. やってみたい ところに やろう と思えるきっかけがあったのでヨガを始める(いわゆる「市場」)
  4. 誘われればできる(Tamasic)
  5. 強く誘われればできる(ドTamas)

下の二つは、アーサナをゆったり・らくにしても、クラスの価格を「良心的(誰のだ? と思うが)」にしてもあまり関係のないゾーンです。昔はこういうのをカバーするはたらきを、ご近所づきあいのような広い空間を共有するコミュニティが果たしていました。インドでは、これがよく機能しているように見えます。ヨガの指導技術ではなく、「場の構成力」がモノをいう領域だと思っています。



わたしは

  • 1の人には、必ずや楽しんでもらえるように
  • 2の人には「ヨガなめてました! すんません」と言いたくなるくらいの満足度を
  • 3の人には、その後の長い人生の中でまたヨガを思い出したときに、いい思い出になるよう
  • 4の人には、うっかり間違えて来ちゃった感じになっても、ひとまず笑えるように

ということは考えますが、5までは考えません。せめて4以上の気分のときに一緒にヨガできればいいかなと。
意外と多い「今度こそヨガニードラ寝オチしないよう、リベンジに行きます!」という不純な動機で来る人がいますが、それはまあ、どうぞ(笑)。



人の心は常に変化するから、同じ人が1から5の間を行ったりきたりするものです。そのなかで、わたしは1〜4の間のタイミングで出会いたいと思っています。ここまで考えるのは、わたしが5の状態をよく知っているからです。
わたしはもともと4と5が一緒になりがちで、「誘われてもやらん。向いていない」というのを決めつけてしまうところがあります。自分の中にあるラジャスやタマスの察知力が高いので、そこに対しては無抵抗。ヨーガの思想的にはこれは短所だけど、こういう考えに至るきっかけとしては長所も果たしているし、アーユルヴェーダ的には一概に短所ではない。
「やってみたら楽しかったことだって、たくさんあるだろう」という意見もあるかもしれませんが、それは基本的に3か4の状態のときです。その経験論で5の存在をなかったことにしようとする必要はない。



「ヨガによって、前向きになれた。」

 ⇒まだまだ。もっとあたたかい領域があります。続けてください。



「ヨガによって、前向きではない状態の自分を責めなくなった。」

 ⇒そうそう、その調子です!



わたしは去年くらいまで、4と5のときも天風イズムの「絶☆対☆積☆極」でいくのがいいのかと思っていましたが、最近は4と5のときにおとなしくできることが大切と考えるようになりました。これはすごくむずかしくて、わたしもじたばたしてしまって、失敗ばかりしています。
そんなわたしなので、あまり人を強く誘いません。



これはヨガに限らずそうだと思うのですが、「あなたを歓迎します!」と両腕を広げて迎えてもらえないと行動できないというのは、たぶん少し被害妄想をしやすい心の状態だと思うんです。そういうときは、ひとまず寝るか、「深く眠れないから」という理由で5⇒2までショートカットして来てくださったらよいです。
たぶん、魔法というのは「かける役割にいる側」にあるのではなく、「かけられると思っている側」に51%、もしくはそれ以上がある。そういう前提でいようとか、まあ、いろいろ考えながらやっております。



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