うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

更年期=思考停止期間ってわけじゃないのでね

これまでよりも直接的な書きかたをしたほうがいいのかな。と思うことがありまして、今日は直球のタイトルで書きます。
このブログで更年期について書くことについて、今日はわたしの考えをおしゃべりのように書きます。

 


先月、久しぶりに関西でヨガクラスをしたら、「最近はブログで更年期について書かれていますね」と言われました。

これは東京でも同じで、少し若い世代の人から「うちこさんは最近ブログで更年期のことを書いているけれど、一緒にいてまったくそんなふうに見えない」という表現をされます。
そう。

 

 

  そんなふうに見えない

 

 

この言葉が発せられること自体が、まさにわたしがここに更年期について書いていきたい理由なんです。
「そんなふうに見えない」時間がほとんどだけど、ゆっくり変化するものだから、ないことにするよりはオープンにしたほうが対処法の情報が細かく得られます。

 

いま「そんなふうに見えない」のは「ヨガをしているからです」ってだけじゃなくて、呼吸法や運動・瞑想のほかにも、睡眠・食事はもちろん、サプリ・漢方薬などの情報にも耳をすませて気をつけているから。
これについては以前書きました。

 

 

昭和のヨガ本は特にそうですが、ヨガを魔法のように仕立てたい理想が強ければ強いほど、アウトプットが「克服した」「治した」みたいなトーンになりがちです。
でもいまは、エビデンスエビデンスエビデンス!のラビリンス。エビデンスが多すぎて迷う時代です。2020年代です。

 

だからこそ、この捉えにくい揺らぎの存在感を個人的に言語化したい。
これはわたしの感覚ですが、大人になっていくときの揺らぎと比べて、こんな違いを感じています。

 

  • 10代終盤〜20代:感覚的に近くで速く動いている揺れ
  • 40代:感覚的に遠くで速く動いている揺れ

 

「最初に感じた地震」と「そのあとの大きめの余震」みたいな違いです。なんか距離感が違うんです。
10代後半〜20代の頃のホルモンバランスの揺れはインパクトがわかりやすく、頭痛薬を飲むにしてもすぐに判断しやすかったのだけど、更年期の頭痛は判断までの時間が長い。あれ? 余震? これ自分が揺れてるんだっけ? みたいな微妙なボケが常に混ざり続けます。
(30代の頃は忙しくてしんどくてあっという間に過ぎてしまい、あんまり記憶がありません)

 

 

そしてあと5年くらいの間に閉経を迎えるであろういまのわたしの感じは、晴れている夏の空でも、遠く上空の雲が速く動いているときもある、そんなイメージ。

一瞬ぐわっと雲が来て、わたしの場合はそれが寝起き時の発汗や生理前後の頭痛なのですが、早いときには速攻でしれっと晴れます。ほんの数十秒・数分のことだったりします。


精神的に雨雲の塊が黒くて厚めに感じる気持ちも、ここ半年で想像できるようになってきました。これはザーッと降るかな、というイメージ。数年前はまったく想像できませんでしたが、いまは少し、イメージだけはわかります。
なのでそれが来ても慌てなくていいように、いま感じている気配の続編として受け容れられるように、日々観察をしています。

実際の空の天気予報の精度が上がったのと同じように、いまの時代は心身の理解・対処のための情報がたくさんあります。
このブログでエクオールチェックをしたとか命の母を買ったとか、そういうことを書いているのは、それを伝えるためです。

 

 

わたしは15年以上ブログを書いてきたので、アーサナの身体感覚や内観について書くのと同じように、更年期についても自分の経験を情報源に言語化できないものかと、そう思っています。
なぜなら、

 

 

  更年期と言われる年齢の期間=思考停止期間

 

 

ではないのでね。
あえて話をわかりやすくするために消去法の書きかたでリストアップをしますが、わたしが取りたくないと思っているスタンスは、以下の4つです。

  • あとになってから、あのとき自分はこんなに大変だったとドラマタイズして語る
  • そのときに、ほかの要件と絡めて他者や社会を加害者のように語る
  • わたしはそういうの、ないかな。と、”効いてないふり” をする
  • 終わってハッピーなわたし♪   といきなり極端にワープする

 

これらのすべてを避けようと思ったときに、どんな観察ができるか。
1と2と4のコンボは最後をハッピーエンドでコーティングしただけの呪いの連鎖。かといって、3では鈍すぎる。

 

 

少し前後を歩く人に「わたしのブログの更年期カテゴリを掘ってみて」と言えるように、記録してみたいと思っています。10年て、まあまあ長いですからね。わたしの5年目が、誰かの1年目だったり9年目だったりするわけです。

こういう時に、ブログのリアルタイム性が生きる。

 

 

戦争でも差別問題でもそうですが、なんか中間の感じって、色が見えにくいから脚色せざるを得ないというか、ポジションどりをハッキリさせなければいけないような、そういうところがありませんか。

わたしは更年期もそれと似ていると思うんです。

 


更年期の話を書くと若い世代の人にはわたしの様子が変わったかのように想像するみたいで、実際に会うと「なんだ、相変わらず元気そうじゃないか」という反応をされるのですが、元気です。更年期は「相変わらず元気そう」と共存します。
ここが大事なとこです。

 


  更年期は
 「元気そう」な振る舞いを
  慣れとしてやれるだけの経験を経てから迎えるもの

 


なので「いつの間にか終わってたの」と、あとでトボけることもできてしまう。だけどそれはそれで、経験をなかったことにして流しちゃったような気もして、なんかもったいない。

坂口安吾の小説を読むと、爆弾をボコボコ落とされている戦時中にも、庶民が自分なりに日々に色を感じながら暗雲とともに生きていた "個人の存在" を感じます。

わたしはそれがとても好きで、その演出は、演歌っぽい根性論でもNHKっぽい庶民の美徳演出でもなく、あたりまえに人間的で、ちょっと洒落ててかっこいい。
なのでわたしは「この期間を悲観にも楽観にも寄せずに記録するいい方法って、ないんだっけ?」と、実際に記録しながら試していると、そういうわけです。

 


更年期については男性も女性と同じように、こういう考えになっていくといいなと思っています。

自分の状態を理解しようとする方法すら見えなくて、漠然と陰気になったり不機嫌になったりしながら年月を重ねた人が多かった結果が、現在の更年期のイメージにつながっていると思っています。

男性のほうが年齢が遅れてくるだけで、そういうカーブがあること自体は人間に共通すること。女性を見下してきた手前、いまさらこの価値観に入っていけない、みたいな男性がわたしよりも上の世代には多いけれど、近い世代はそうでもないと思うのでね。

 

 

すべてのことは個人的なことだからこそ、経験の共有のしかたを工夫したい。

いまわたしは、そんなことを考えているわけです。若いうちからブログというプラットフォームがあった世代なので、この時代ならではの記録ができたらいいな、と考えています。