ビジテリアンは、ベジタリアンのこと。
菜食主義者と肉食者がそれぞれ主張を交わす場面が大半で、宮沢賢治の説明のうまさに息を呑みます。
どんどんその世界に引き込まれるなかで、ふと、これはスポーツの祭典・オリンピックのことか? と思う瞬間がありました。「大祭」の文字列に引っ張られたようです。
この物語はベジタリアンの集う祭典が舞台。そこに「異教徒席」「異派席」が用意され、それぞれの微妙な違いも丁寧に説明されたうえで各自の主張が展開されます。
この異教徒席にシカゴ畜産組合理事・兼・屠畜会社技師という参加者がいて、その人がベジタリアンに向かって「実は、なあに、一向あなた方が菜っ葉や何かばかりお上がりになろうと痛くもかゆくもないのです」と話します。
ベジタリアンはごく少数だからということなのですが、その人の以下の話を聞きながら、オリンピックを想起しました。
全く動物は一つの器械でその脚を疾(はや)くするには走らせる、肥らせるには食べさせる、卵をとるにはつるませる、乳汁をとるには子を近くに置いて子に呑ませないようにする、どうでも勝手次第なもんです。決して心配はありません。
人間と家畜を一緒にするなと怒られそうですが、別の生き物に対してその仕組みを知った人間がコントロールすることへの割り切りと、まだ幼い人間の心身の仕組みを知った者が ”育成” することが、似たものに見えてしまう。
わたしはその問題を若い肉体よりも精神のほうに多く感じていて、人間のエネルギーの源は「認められたい」という気持ち。育成のためには、認められない悔しさや寂しさを刺激してやる必要がある。
一瞬、この異教徒の語り「乳汁をとるには子を近くに置いて子に呑ませないようにする」がスポ根なコーチや子供をスターにしようとする親の演説にも見えて、それは映画『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』の世界。
わたしは昔見たアスリートやプロを目指す子供の映像(具体的には卓球と相撲)にも、漠然と似たものを感じていました。こういうのってズバッと言語化できないのだけど、それはできないのではなく、しちゃいけないと思うから。
その当時子供だった人たちは同世代なので、それを見ていた自分も幼かったはずなのに、幼いながらに子供は社会的に大人のコントロール下なのだと納得するような、そういう感覚がありました。
話が大いにズレましたが、わたしはこういうズレかたをしました。この物語はこのように、さまざまな思考の記憶を引き出します。
さて。ここからやっと、ヨガっぽい話をしましょう。ここはヨガのブログですからね。
ビジテリアン大祭では、菜食主義あるいはヴィーガニズムに関する肉体面での視点が多く盛り込まれています。
犬歯の数を議論に乗せるやりとりも、ベジタリアンの考えでは「たった二本しかない」という視点になるけれど、肉食をやめない派からしてみれば「臼歯も犬歯もあるのだから混食がふさわしい」ということになる。
この論点もしっかり展開されています。
わたしはこの歯をベースにした考えを2007年に知って大いに腹落ちして以来、自分なりの食べ方をしているのですが、わたしの考えなどはどうでもいいでしょうから、ここは多くの人に知られている人物の発言を借りることにしましょう。
ここで宇野千代さんご登場です。
上記の本にあった宇野千代さんの考えに似たものが、この「ビジテリアン大祭」のなかでも探られているように感じました。
さらに。
宮沢賢治は、信仰の側面ではブッダが最後に食したものの話や親鸞聖人の肉食妻帯も議論に乗せ、物語を展開させていきます。
ものすごい構成力というか、なんというのこれは。まるでガンディーの書いた『真の独立への道』のようでした。
この本はガンディーの思考の言語化力に驚いて二度読んだのですが、宮沢賢治がこれに似たことを、この『ビジテリアン大祭』でやっています。
人間の能力を使うということは、考えを持って衣食住して生きるということはこういうことではないですか? という問いかけを、ユーモラスな大人の物語にしています。
宮沢賢治は37歳で亡くなっています。ということは、この考えがまとめられたのは、それよりも前。圧倒的な頭の良さを見せつけられました。そりゃ神格化されたりもするわなこりゃ。