社会のデザインが「スマホありき」になっている場所が増え、いよいよデジタル社会なのだなと最近になって思っています。
身近な例でいうと、わたしが自分の練習のために通っているヨガスタジオの入り口でのチェックインが「スマホありき」になりました。
それまでは家にスマホを置いて出かけ、往復各30分+練習1時間で計2時間の遮断&集中の機会になっていたのですが、ヨガの練習へ行くのにスマホを持ち歩くようになりました。
年始のタイ旅行でも同じことを感じました。
わたしはこれまでSIMを入れずに行動して調べ物はwifiのとれるところでやるというメリハリをつけていたのですが、特に地方ではタクシーやトゥクトゥクが常駐しない駅・バスターミナルが増え、移動できなくなっていました。
「ここへ電話してね!」「配車アプリで呼んでね!」という垂れ幕があるだけで、近くにタクシー(一般人が自家用車でやっている)の人がいるのに、いることがわからない。
まず英語を話せる人を探し、その人に仲介してもらって方法でなんとかしました。
インドへ行ってきた友人からも似た話を聞きました。「もう配車アプリが便利で安全すぎて(インドの場合はぼったくられないという意味)、これは使っちゃうわ」と言っていました。
ここまで社会のデザインが「スマホありき」になると、わたしが土地勘や土地のルールを掴むサバイバル能力や会話力を維持するためにやってきた旅も、目的がひとつふたつ減ります。
わたしは脳の前頭葉機能をどうやって維持すればよいのか。
この本ではコミュニケーションと感情の共有(=脳活動の同期)の話が多く語られていますが、わたしは人と人のコミュニケーションだけでなく、人と場の間にもスマホが介入しすぎていると感じます。
スマホアプリがある前提で回っている社会って、その場にいても何が起こっているかわからないんですよね。
この本にあった、マルチタスクは7つ前後まで(マジカルナンバー7)も、身にしみて感じます。
集中するために場所を変えると7つに絞りやすくなります。仕事を家でできるのは便利だけど、家にいるからできてしまうことが増えるので、マルチタスクに入り込もうとする要件も増えてしまう。(お、晴れてきた。洗濯機回しちゃおっかな・・・みたいなやつ)
モンキーマインドのモンキーが千手観音のようになっています。
脳の外側に便利なものが増えても、わたしがリアルで楽しめるキャパシティはこのくらいがベストというラインを自分で見極めて環境設定していくことの重要性を再確認しました。
脳は身体のなかにあるのでね。