映画を何度も観ていたので内容は知っていたのだけど、読んでよかったと思うことがいくつもありました。
映画は主演が黒木華さんだったので原作よりも現代に近く見えました。だけど原作者は1956年生まれ。少し上の世代の人が書くエッセイのちょっとした喩えがツボにはまります。
「あら、でも、私たち四人グループなのよ。四人いっしょにお願いします」
辻が花染めの訪問着に扇面花鳥の袋帯をしたおばさんが言った。薄紫色のとんぼメガネをかけて、ジェームス三木に似ている。
(「茶会」 より)
パーフェクト!
グラデーションメガネにうるさいわたしに刺さる最適なモデル選びがたまりません。
ヤングはジェームス三木さんを知らないかもしれないけれど、ドラマ「西遊記」のおもしろい脚本を書いていた偉大な人物です。
このエッセイは全般 “こういうおばさんになりたくないと思っていた” という要素が散りばめられていて、たしかに20代30代の頃は中年女性をそういう目で観察してたな、という記憶の箱をゆすられます。
「武田のおばさん」は、中年女性が集団になった時に発するキンキンした甲高い声で話すことがなかったし、おばさん特有の何かを押し隠したような曖昧な微笑を浮かべることもなかった。
(「武田のおばさん より)
”何かを押し隠したような曖昧な微笑” とか、ほかにも同じような意味合いで “卑屈さがない” という表現があったりして、わたしが最近対外的なコミュニケーションで強く意識しはじめたことが不意に文字として現れます。
お茶をやっているからといって視点まで優等生にならないように気をつけながら書かれていて、そこがいい。すごくいい。
このエッセイの最大の魅力は、映画でもそうだったけれど、規範的であることに縛られる自己の見つめかたです。
原作では「なぜでもいいから」「コンプレックス」という章にそれが書かれていて、”なぜと問うこと=先生にほめられる” というテンプレートが通用しない状況に戸惑ったり、自分だけアドリブがきかない性質に苦悩する様子が書かれています。
ここは映画での見せかたも絶妙でした。それを文章でおさらいすることで “規範に依存し縛られ粗雑になり落ちていくマインド” を客観的に見せてもらえます。
わたしはよくない。他のみんなはみんないい。(←という日本語の崩壊した世界設定)という思考に呑まれていくときの、あの自己憐憫の渦。
わたしもこれまでヨガで 「その質問は重要ではない」と返されたときにこの渦をちらっと見ては視点をなんとか切り替えてきたので、ここで沼にハマる描写になつかしみを感じます。
振り返ってみると、それを客観視したきっかけがヨガの練習場所にあっただけで、社会人になって年齢を重ねるほど「その質問は重要ではない」と周囲が言ってくれなくなっていました。
若い頃は重要でない質問をすると、先輩がその質問が重要ではないことの意味や背景を教えてくれたものでした。だけどだんだんそうではなくなって、恥をかくと急に世の中がきびしく見えてきます。
重要ではない質問をして何かをやった気になる、そういう心の慣習が文章になっていてドキドキしました。
もうひとつ、原作で読むとヨガに置き換えて考えを深めるきっかけになる題材がありました。
それは「松風がやむ時」という章のなかにあった、以下の記述の前後に語られていることです。
茶道が男のものだったことが、今では信じられないほどだ。
茶室の入り口があんなに小さいのは、刀を持ったままでは入れないように設計されているという話になっていきます。
この本を読んだ頃の少し前に、ヨガクラスの冒頭で「なぜヨガは女性が多くやるものになったのか」という話をしたばかり。印象に残っていたので、その日のうちにもうひとつのブログに書き残していました。
映画のなかで「いつ殺されるかわからないから一期一会だったんじゃないか」みたいな話を鶴田真由さん演じる雪野さんが話していたのは覚えていたけれど、茶室の設計の話は読まなければわかりませんでした。
時代ごとに求められかたの背景が変わっている。
ヨガも同じなのだろう思いながら、著者のサマーディ体験描写にうなりました。
この本を著者が執筆をしたのと同じ40代で読むのは、すごくいいと思います。電車でも読みやすいし。
まだちょっと早いけど……、とか、ちょっと年齢的に片足出ちゃったけど……って人もぜひ。
おすすめです。
映画もよいですよ!
なんか、これを書いた頃のことを思い出しました。