わたしの周囲に何人か「長生きしちゃうかもしれないからヨガをしている」という人がいます。
これ、すごくわかるんですよね・・・。とても前向きでいいなと思っています。
こういう前向きな悲観力ってある。
「長く生きるかもしれないから」というのは、なにげにヨーガの古い書物に書かれていることに沿っています。
長く生きるほど、死について考える期間が長くなるということだから。
老・病・死について思う「期間」の苦しみを超えていくために、時間を概念として捉えたり、視点を宇宙規模や元素単位にまで拡大縮小してみたりしている。
この本に「元気は他者からはもらえない」というトピックがあり、これはわたしも考えてきたことで、以前このブログにも書いたことがありました。
元気は他者からはもらえないものだと思っておくと、その都度、自分の中にあるエネルギーを見ようとしたり、考えることになります。
わたしが冒頭に書いた「長生きしちゃうかもしれないからヨガをしている」という人の言いかたが好きなのは「してしまう」という表現から悲観力が読み取れて、さらに、それに対するアクションがセットになっているから。
この人は不安をいったん横に置いて、考えたんだな。とわかるから。
この本は第5章のタイトルが『過去を楽観し、未来を悲観する』で、未来を悲観するからこそ今の自分がを未来の自分ために尽くすことができる。今の自分があるのは過去の自分のおかげ、という考え方です。
始終、感情を自覚することの大切さについて語られています。
第3章の『正面から積極的に悲観する』には、わたしのヨガの先生がおっしゃってたこと(コンフリクトはチャンス)と同じだわ、と思う記述がありました。
「このままで良いのか?」という小さな「悲観」が生まれたときは、その違和感は、実は考えるチャンスだと。
この本を読みながら思ったのですが、悲観という言葉の印象を嫌う人は、その内容を「自分を脅迫すること」だと感じているのではないか。そんなふうに想像しました。
この本にある内容を読んでいくと、「自分が悲しむこと」について考えるきっかけが悲観です。それは前向きなことで、過剰な自己犠牲を防ぐ視点も含まれています。
ほんの数行、女性は男性よりも役割に自己犠牲を求められることが多いぶん大変だろうと推測・配慮されて書かれている箇所があって、悲観と役割が紐付きやすい環境についても織り込み済みで、そのうえで「悲観」を見直す。
前向きな悲観についての本でした。