少し前に高峰秀子さんの『わたしの渡世日記』の感想を書きました。
わたしは高峰さんを知ったきっかけが映画『放浪記』で、作家・林芙美子の役がうまくて驚きました(本人のことは見たことがないのだけど)。
原作がものすごく長くたくさんのエピソードがあ理、映画のほうは「おっ。この場面を入れたか!」「成功した後のエピソードは映画オリジナルか。なるほど、こうきたか!」という楽しみ方ができました。
数年後に『わたしの渡世日記』を読んだら、時代と自我に翻弄される女性・林芙美子を演じていた高峰さんご本人の境遇・気性・観察眼も負けず劣らずで、自伝の下巻を特に興味深く読みました。
映画『放浪記』の話がすごかった
高峰さんは基本的に俳優はただの素材だから出演映画への批評に反発を示すべきではないと考えているけれど、『放浪記』についてだけは異論を唱えたそうです。
要約すれば、成瀬監督と私は、はじめから「放浪記」をひとつの文学作品として理解し、その映画化に当たって、文学少女の執念と、その生きざまを描こうとしたのに対して、見る側の人々は「林芙美子の自伝映画」を観ようと思って映画館に足を運んだということだろう。
(イジワルジイサン より)
<原文には”はじめから” に強調点がついています>
わたしは映画『放浪記』で初めて高峰さんを観て、原作通りの精神的ブスキャラに感動して好きになりました。だけど公開当時の観客の反応は数年前まで生きていたリアルなフーミン(わたしがそう呼んでいる林芙美子)の人気の余韻があるために、不評だったみたい。
わたしは数ある『放浪記』原作のエピソードの中で、キャバ嬢仲間のトキちゃんとの話に尺が割かれていたところがこの映画のいいところだと思っています。
この映画で高峰さんはこんなふうに考えて演技をされたそうです。
「放浪記」の場合、林芙美子その人が原作者であり、作品の主人公だから、「放浪記」時代の彼女の精神形成をつかむことが、役作りの重点であった。私は当時の彼女の作品を通読し、私なりのふみ子像を創った。
一、「放浪記」以前のふみ子はごく普通の女性で、ものを書いても、現代の投書夫人程度。または大人の綴方教室。
二、明るさは常に「心の暗さ」から出し、空虚さとやけっぱちが常につきまとっていること。
三、無意識のうちの心の潔癖さ。若い女らしい、文学へのあこがれ、美しいものへのあこがれ(男性の容貌もふくめて)。
四、人間臭さ。美と醜は表現しても、下品と紙一重で抑えること。
五、始終、自分が美しくないというコンプレックスが重大な影響を持つ作品だから、絶対に美人に映らないこと。美しさは容姿以外のもので出すこと。
六、初めは泥くさい少女でも「放浪記」出版からラストにかけて、きたえられた一種の人柄と品を出すこと。
<原文には五の ”美しくない” に強調点がついています>
この映画は脚本が井手俊郎さん&田中澄江さんで、少女の感覚からすると気持ち悪いおじさんであった支援者(上記でいうと「三」の感覚)が、ラストでは気持ち悪くない存在に変わっています。この人の役を加東大介さんが演じていました。
それは才能を認められてからの「したたかさ」の表現かなと思っていたので、上記の「六」にある “きたえられた一種の人柄” の一環として、やっぱりそういうことかと確認できました。
この話が書かれている「イジワルジイサン」という章の名前が示す対象は成瀬巳喜男監督で、成瀬監督は林芙美子原作の『浮雲』も撮っています。
高峰さんは映画『浮雲』での森雅之さんを絶賛
数ある高峰秀子&森雅之ペアの映画のなかでは、わたしは『妻として女として』が好きですが、高峰さんは『浮雲』の森雅之さんを絶賛していました。
物語が終戦直後の設定なのに当時は二人ともお腹が出ていて、こんなことをしていたそうです。
栄養の行き届いたデブの富岡とゆき子ではもうそれだけでこの映画はオジャンである。森雅之とはクランクイン前に協定を結んだ。
「徹底的にやせること。ナイショでビフテキなど食べないこと。仕事中の昼食は一緒に食べること」
であった。朝食はもちろんヌキである。
(中略:ここに撮影所の筋向いのレストランでのメニュー紹介が入ります)
二人はみるみるうちに痩せた。撮影も半ばごろに、私はセットの中でセリフを言いながら、何度も貧血を起こしてひっくり返りそうになった。楽しくて、辛かった当時の思い出話をして笑い合いたくても、相手の森雅之はもうこの世にいない。淋しく、残念なことである。
わたしは映画を観る前に、「富岡の役は誰がやってるんだろう。あのズルさを出せる人って誰よ?! 」と思っていて、観る前はそんなに期待をしていなかったのですが、映画を観るとその姿が写真で見る太宰治にそっくりで、これはこれで別のおもしろさに変わった映画でした。
* * *
それにしても、高峰さんはやっぱりそこまでフーミンを解析していた。
じゃなきゃ、あそこまでの映画にならない。ならないんですよね。
▼どちらも大好きです
▼この本の下巻で制作話を読むことができました