うちこのヨガ日記

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質問力 ― 話し上手はここがちがう 斎藤孝 著

昨年読んだ『コメント力』という本にあった喩えや事例が面白くて、同じシリーズの本を読みました。

この本を読みながら最初にそうそう!と思ったのは、ブルペンキャッチャーの喩えでした。

小さな子と話すときのようにリアクションを返すのはまさに、ブルペンキャッチャーが強く音が出しながらキャッチするようなもの。この本はさらに「質問の品質」に切り込んでいて勉強になります。

 

ここに何度か書いていますが、わたしは30代の後半に行ったインドの道場で「その質問は重要ではない」と返されるディスカッションの授業を受けてきました。これが恥ずかしくてねぇ。

こういう感じは20代まではたくさんあったのに、すっかり打たれ弱くなっていました。30代で何度か仕事でそれに近い返しを受けたことがあって、その時もかなり凹んでいたのに、自分をごまかしていました。

外国の人から英語でシンプルに指摘を受けたことによって、考え直すことができました。

 

 

自分の質問の仕方がよくなかったのか、テーマに合っていなかったのか。

そこから、そもそも質問したかったのか? という自問自答のあとに「ただそこに居た自分の爪痕を残したいだけの、先生やその場との関係性のログを残したいだけの、とても失礼なコミュニケーションだった。そりゃあ嫌われる」というところまで反省が届くきっかけになりました。

 

30代って、職場でもどこでも評価をされはじめる時期だから、エゴの取り扱いがむずかしいんですよね。精神的にせこい人間が創られていく時期でもある。

対象に関心を寄せるエネルギーをケチって、テイクできる前提で質問をギブしますという不徳な考え方をする、そういうタチの悪さって、それがそのまま人格になってしまうもの。

 

 

この本の著者は大学の先生なので、大人になっても続けてしまう質問の失敗・教育の問題点について繰り返しこのように書かれています。

 日本では素朴な質問が喜ばれる傾向にあるが、それは間違いである。基本的にきちんと知識があった上でする的確な質問のほうがすぐれている。

(第三章 コミュニケーションの秘訣 ── 1. 沿う技)

 

 つまり「質問力」は状況や文脈を常に把握する力が試されているといえる。質問を聞けば、その人間が場の状況やそれまでの文脈をどれだけ理解していたかが即座にわかってしまう。非常に恐い指標である。

(第一章 「質問力」を技化する より)

日本で質問者にだけ与えられる "素朴という名の保護シール" って、罠なんですよね。そこでスクリーニングされる。

 

 

かといって、積極的=個人への踏み込みでもありません。

ここも重要で、わたしはこの本にある著者の私見に大賛成です。

 私の個人的な考えだが、コミュニケーションの際、相手の精神分析的な深層心理や過去の心的外傷をつき詰めていくことがいいことだとは思わない。だが、その人にとっての活動の根幹を成している本質的なテーマについては常にふれていたほうがいい、と思っている。

(第五章 クリエイティブな「質問力」より)

わたしの友人に「それ、ずっと残ってるね」という相槌の打ちかたをする人がいます。

彼女はわたしがヨガのインストラクターになった学校でデスク業務をしていた人で、当時起こった出来事を「あの時のあれと似ている」とわたしが例にあげるたびに、「それをずっと気にしているね」という意味ではなく、「その出来事はことあるごとに使える事例で、社会生活上の普遍的なテーマだよね」という意味で言ってくれます。

共通の記憶を引き出すときにベタついた踏み込み方をしてこないところがスマートだなと、近くにいながらいつも感心しています。

この部分を読んで、不意にそんなことを思い出しました。

 

 

この本にはいくつかインタビューの事例も載っていて、そのなかにモハメド・アリの改名の話が載っていました。

わたしはそのエピソードを知らなかったので、この題材と関連づけていくつか例に挙げられていた黒人の著名人への質問のプロセスに、こういうことを、アジア人同士でできるかな……と想像しながら読みました。

 

 

途中で、"質問される側が答えているうちに頭が整理されていくのはありがたいもの" と、質問を受ける側の気持ちも書かれていました。

これは、質問をする側でもされる側でも、結果として起こる充実感の中心にあるものだと思います。エゴをそぎ落とす修練の先にある充実感って、ちょっと特別なものですよね。