今年は関西で『沈黙』という小説の読書会を開催してきました。
わたしが主催する読書会は、昨年までは「宿題」という形式でいくつかのアンケートをお願いしていたのですが、今年から宿題に回答いただく形式をやめました。
やめた理由は当日まで明かさずに行ったのですが、参加くださったかたのなかにおひとり、思考の壁打ちに ChatGPT を使用したかたがいらっしゃいました。
そう。
まさにこういう時代になったので、読書会のデザインもバージョンアップしてまいりましょう、というわけです。
わたしも近頃は読書や映画鑑賞のあとに自分の思い込みや決めつけ・思考の癖を見たくなると、ChatGPTに以下のような問いを投げています。
小説「○○」に登場する△△という人物の
□□の行動を
各章ごとに箇条書きにしてください。
こんなふうに一度 AI を頼りに淡々と思考の整理をしてみることで、自分が物語の登場人物の行為を強く記憶したり印象付けていた要素(あるいは気にかけなかった要素)がわかり、それでもスッキリしない部分を通して、自分の中にある精神の色付けが見えてきます。
な~んて話はさておき。
この読書会では、事前にお送りしておいたいくつかのテーマのひとつに
「告解」という行為・機能について話しましょう
という時間を設定していました。
わたしの感覚の話
この日は参加者の中に何人か、ヨガのティーチャー・トレーニング(TT)を受けたことがある人がいらっしゃいました。
なので、わたしがこの小説を読んで思ったことを、その経験に寄せて話しました。
わたしは欧米の形式に寄せたヨガのTTにありがちな
「シェアリング」ってのがどうも苦手で・・・。
そうやって拒絶したくなる心の背景に
この小説を読みながら感じたことがリンクしていました。
この小説にはクリスチャンの「告解」という行為が何度も登場し、それを聴く側(司祭)の、信徒に対する軽蔑の感情が描かれています。
ここに、日本人作家が外国人宣教師のフリをして書いている小説の妙味があります。
日本の文化・言語・コミュニケーション形態に持ち込みにくいものが何なのか。それをあぶり出す仕掛けがいくつも設定されています。
このテーマについて話す時間のなかで、「わかりますよ」「ウンウン」と言っていただいて、まるでわたしがカウンセリングを受けているみたい・・・
(変な時間になっちゃった!)
立場・相づち・守秘義務
いろんな人が、いろんな話をしてくれました。
その中で、以下の要素が話されました。
- 同じ立場を経験していない人に話す場合は、それ用に説明の文脈を整える。その過程で偽善やエクスキューズ、脚色が入りやすくなる。その瞬間に、不正直になっている自分に気づくから話すことをやめよう、ってなる
- 日本語話者同士のコミュニケーションは「相づちの有無」に依存するところがある
- 「NDA結んでないけど、守秘義務はどないなっとるん?」という疑問が起こる
前提の整った、ほどよくクローズドな空間がいい
このテーマに取り組んでいる時間は、まさにこのテーマそのものの時間になっていました。
この時しか喋らない、この範囲から広がらない
範囲を区切った設定だから見えてくるものもある。
その時間の中で柔らかくなっていくものがある。
自分の割り切れなさから知ったこと
わたしは「シェアリング」を拒絶したくなる自分の中に、個人の性格だけではない背景があると思いつつ、
「そもそもここは、そういう文化圏じゃなくない?」
という気持ちを「シューキョーっぽい」「カルトっぽい」という表現に変えて居心地の悪さとして表明するのは簡単すぎて雑だなと思ってきました。
それよりも
立場の違い、相づち、守秘義務
これらに振り回されないところまでその問題が明確になっていないと、悩みや苦しみをその場に合うように捏造してしまいそうで、そこに警戒心があります。
そこに正直でありたいからこそ、シェアリングの場でわたしは居心地が悪いのでした。
そういうことって、ありませんか。