うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「宗教詩ビージャク」収録のサーキー カビールの詩/橋本泰元(訳注)

この本の電子書籍を買ったのが2020年の9月。自粛型の生活に慣れてきた頃だったかな。

それからずっと、この本のカビールの詩を写経していました。毎日ではなく約2年くらいかけて、あき時間を使ってノートに書き写しました。

カビールの詩にはインドのヨガを学ぶなかで保留している引っ掛かりをごっそり回収していく力強さがあって、歴史的に抜け落ちやすい時期(ヒンドゥーイスラームと交わる民衆世界)を描写しています。ゴーラク・ナートの名前も多数登場します。

 

10年前に、わたしはインドでハタ・ヨーガの書物や歴史についての授業を受けたことがあります。その時にインド人の先生に質問をしたら、隠喩やシンボライズした表現の部分はたしかに外国の人には理解しずらいだろう、と話してくれました。

 

たとえばのイメージとして、日本人であれば「葉桜」が詩に登場したら、それを季語としてだけでなく周辺のことも想起できますよね。

  • 地面に花びらがたくさん落ちていること
  • ピークが過ぎてもそれはそれで、その時の価値を感じていること
  • 全体ではなく一部が葉桜なのであれば、その場所に強く風が吹いたと理解する

 

こういう季語+αのような、豊かな隠喩表現がインドの詩にもたくさんあって、そこには神話や王族の物語との関連づけも多くあります。

数字が絡んでくるのもインドならではで、例えば「三」が出てきたらトリグナなのか三界なのか三苦なのか三経路なのか三神なのか・・・、慣れれば類推できるようになります。これは本文&註釈の分かれかたをたくさんインプットして慣れていくしかありません。

 

「宗教詩ビージャク」には、カビールの詩がたくさん収録されていて、過去に感想を書いた「ラマイニー」「サバド」に対して、今日紹介する「サーキー」は形式として一つの詩の言葉の数が多く、表現もさらに深くて豊かです。当時の人々の生き様をレポートされているようなおもしろさがありました。

(数字は収録されている詩の番号です)

この町と市場に着いて、旅支度をしなかった者は、

黄昏になって日が沈んでも、もはや旅支度はできない。(8)

ここで旅支度をしろ、先はでこぼこ道ばかり。

天国を買いにみんな行ってしまった、そこには商人も市場もないのに。(9)

 

 ↓ ↓ ↓

 

上記の詩を隠喩の部分を注釈をひらく形で書き換えると、以下のようになります。

 

 ↓ ↓ ↓

 

この人間の身体と人間界に着いて、絶対的境地を獲得するための修練をしなかった者は、

老齢になって生が沈んでも、もはや旅支度はできない。(8)

ここで旅支度をしろ、人間界以外の輪廻世界はでこぼこ道ばかり。

神話プラーナが描く天界を買いにみんな行ってしまった、そこにはサッドグルも人間界(あるいはサットサンガ)もないのに。(9)

肉体を魂の乗り物と捉えるヨーガの考えを織り交ぜながら、遠視丸的で人間界を軽視しすることへの風刺が書かれています。

カビールの詩には信仰のなかにある権威や流行や排他的な知識階層へのディスりがあって、ストリートの知恵みたいなインパクトがあります。

相田みつをさんよりもエミネムさんに近い。と言ったらわかるかな)

 

 

喩えがインドならでは、というおもしろさもあります。

三界はバッタになった、心と一緒に飛んでいく。

神の子が神を知らずは、ヤマ(閻魔)の手に落ちる。(93

こういうところで、バッタです。

 

 

キューンとくる詩もあります。

甘露の薬包みを幾重にも畳んだ。

自分のような人が見つかったら、その人に溶かして飲ませよう。(121

そうそう、本当に伝えたいことは、そういうふうにしたくなるもの。

 

 

ふわふわ感がないのも特徴です。

女は愛しい夫のものと言われるが、他の男と一緒に寝ている。

情夫を心に住まわせて、主人がどうして喜ぶか。(268

ジュディ・オングも歌ってたなぁこんなこと。(歌詞は阿木耀子さんです)

 

 

そしてなにより民衆へ向けた語りと喩えに特徴があって、そこが魅力です。

自分の腕の力を使え、他人への期待を捨てよ。

庭に川が流れている、その家の者が渇きでどうして死のうか。(277

心が渇いて自己欺瞞の方向へ行きそうな人を食い止めようとするかのような視点のやさしさ。こんな包容力ってある?

 

 

どの詩も短いのですが、読む瞬間によってハッとすることがあって、意識は言葉なんだなと感じられる詩ばかりです。

「ラマイニー」「サバド」「サーキー」というのは、詩の形式の言い方でで、拍数と行数が違います。

「宗教詩ビージャク」という本に収められています。