うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

思考の整理学  外山滋比古 著

大きな古本屋ならだいたいどこでもあるメジャーなこの本を、やっと読みました。
電車に乗る機会が減ってから、こういう細切れで読みやすいエッセイを読まなくなっていました。移動中って、読書ができていいんですよね。

内容は記憶と思考について経験から編み出した習慣や工夫が記録されたもので、それがどのように脳の中で醸成されるか、ゴミになるかがコミュニケーションのあり方も含めて書かれていました。
他人との関わり方に変化のあったコロナ禍からひと段落し、自分の思考を振り返るように読んでみたら、気になるところがいくつもありました。


わたしはここ2年でラジオや音声コンテンツを聴くようになり、自然に入ってくる情報が変わりました。
この本にあった「もっぱら耳を傾けていた方が、話はよく入る」というのは納得で、ラジオで聴く本の紹介は、タイトルよりも内容の特徴をよく記憶しています。
表紙を見ないからというのも大きい気がします。著者の話しかたの印象も、情報としてしっかり入ってきます。

 


この他にも、まさにその通りだと思う話がいくつもありました。いまもときどき軽く絶望する「二度寝と夢の関係」について、これだよな・・・と思いました。

価値観がしっかりしていないと、大切なものを忘れ、つまらないものを覚えていることになる。
(整理 より)

わたしが二度寝をしない理由は “おかしな夢” を見るからなのですが、寝る前に見たどうでもいいネットの記事が反映されていることがあります。
価値観を棚卸ししておくって、だいじなことです。

 

 

ここ数年で感じていたことも書かれていました。

長い間、心の中であたためられていたものには不思議な力がある。寝させていたテーマは、目をさますと、たいへんな活動をする。なにごともむやみと急いではいけない。人間には意志の力だけではどうにもならないことがある。それは時間が自然のうちに、意識を超えたところで、おちつくところへおちつかせてくれるのである。
(寝させる より)

島崎藤村中勘助の小説を読むと、一貫してこれを感じます。
意志の力だけではどうにもならなかったことが書かれている。

 

 


最後まで読み終えてみたら、わたしは「整理・淘汰されること」「しゃべること」について、多く付箋を貼っていました。いずれも身体を動かすヨガの練習と読書会、それぞれのコンセプトにつながることでもありました。

気分爽快になるのは、頭がきれいに掃除されている、忘却が行われている証拠である。適度のスポーツは頭の働きをよくするのに必須の条件でなくてはならない。血のめぐりというが、頭は体の一部である。
(忘却のさまざま より)

頭は体の一部。

 

 

 知識ははじめのうちこそ、多々益々弁ず、であるけれども、飽和状態に達したら、逆の原理、削り落し、精選の原理を発動させなければならない。つまり、整理が必要になる。はじめはプラスに作用した原理が、ある点から逆効果になる。そういうことがいろいろなところでおこるが、これに気付かぬ人は、それだけで失敗する。
(すてる より)

むやみに本を読んで雑に情報を紐付けてるな、という感覚がやっと自覚できるようになってきて、近頃は同じ本を繰り返し読んでいます。

 

 

平家物語』はもともと語られた。くりかえしくりかえし語られている間に、表現が純化されたのであろう。たいへん込み入った筋であるにもかかわらず、整然として頭に入ってくる。作者はいかにも頭脳明晰であるという印象を与えるが、これはひとりの作者の手柄ではなく、長く語ってきた琵琶法師の集団的功績というべきものであろう。
(とにかく書いてみる より)

これは、音があるからリズムが生まれて純化できる、というのもありそう。

 


以下はいずれも、わたしが続けてきた読書会のコンセプトや仕様設定の背景と一致します。

 話してしまうと、頭の内圧がさがる。溜飲を下げたような快感がある。すると、それをさらに続けようという意欲を失ってしまう。あるいは文章に書いてまとめようとする気力がなくなってしまう。
(しゃべる より)

 俗世を離れた知的会話とは、まず、身近な人の名、固有名詞を引っぱり出さないことである。共通の知人の名前が出ると、どうしても、会話はゴシップに終る。
(しゃべる より)

同じ専門の人間同士では話が批判的になっておもしろくない。めいめい違ったことをしているものが思ったことをなんでも話し合うのがいいという信念に達した。
(談笑の間 より)

 われわれ日本人の交友は多く主情的である。酒食の座をもたせることはできるが、知的饗宴を長く続けることは得意ではない。
(垣根を越えて より)

自分で読書会を始める前に、わたしは何種類かの読書会に参加してきました。
そこでさまざまなコミュニケーションを見て、「こうならないように」と考えながら組み立ててきた理由と重なります。

 


わたしは「選んだ」「覚えていた」だけの記憶を自分の考えと思ってしまうことがないように、時間をかけて醸成される考えのために、この本で著者が書かれていた「意識を超えたところで、おちつくところへおちつかせてくれる」という脳の機能に希望を持ちながら、落ち着く場所が地獄じゃない状態をめざしたい。

 

自分で自分を導いていく、そういう思考力の使い方ができるように、捨てたり入れたりまとめたり寝かせたり移動させたり。工夫が必要です。
さて、どこから立て直そうか。