うちこのヨガ日記

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その極端な自虐は、なんで?(島崎藤村「破戒」読書会での対話から)

先月、島崎藤村の『破戒』で読書会をしたところ、半数くらいの人が主人公の自己開示のしかたについて意見をお持ちでした。

 

『破戒』は7月に映画が公開されます。
今日は終盤の展開について触れていますので、これから本を読んだり映画を観たりしようと思っているかたは、そのあとで読むほうがいいかもしれません。

 


さて。
読書会では、ある場面について話しました。
主人公が自分に向けられた疑惑について語る場面です。
相手(生徒)に対して、その言葉選びは強すぎるのではないかと。

 


それをやりすぎと感じるところから、読み手個人の類推が引き出されました。類推は過去データとの紐付けから行われるので、解釈に個人差が出ます。

こういうことって、ひとりでやると自分のストックの範囲でしか出てこないし、大人になってあれこれ経験していても、他人に見せるとなると、義務教育時代の「国語のテストで正解を獲得できそうな回答」を選んでしまいがち。

 

だけどそこは、わたしの主催する読書会です。
この日はサットヴァぶりっ子をとりあえず置いといて、と、その先の話をしました。
主人公の、やりすぎにも見える自虐について、こんな類推が出ました。(以下のリストはみなさんの会話からのわたしの読み取りです)

 

  1. 嘘への懺悔の気持ちの強さ
  2. 嘘を保持してきた時間の重さ
  3. 伝えることで爪痕を残したい気持ち(革新的な人物への憧れ)
  4. 保身の補強・対策強化(まだ他人を信用できない)
  5. 「もういい、じゅうぶんだ」という許しを渇望している


1と2は、国語のテストでの模範解答であり、「求められる解答」です。
3、4、5は社会経験を積んだ個人の類推で、「爪痕を残したい」が、わたしとしては最も言語化しにくいところです。

教師らしい話の組み立てから超個人的な言葉を紡いでいく表現は、自身が教師であった島崎藤村ならではのところ。

わたしの開催する読書会は文学好きのための読書会ではないので、それよりも、数名の人が「自虐が too much じゃないか」「子供相手に、やりすぎ」と感じたことを掘り下げました。

 

 


さて。そこで、先のリストの4です。
この「保身の補強・対策強化」というのは、そこに銀之助(親友)との関係対策も暗に含まれていたのではないかという人の意見からで、あとでこの点について、ひとりで考えました。
4に(まだ他人を信用できない)と書きましたが、これはわたしの解釈で、主人公は友人に恵まれていると認識している。それでも変わらぬ関係の継続を “まだ” 確信できない。信じたいという気持ちがあるからこそ、あんなに言葉が極端になったという読みかたもできる。

 

 

上記の4の、意識すればするほどそうなった、という読みかたには既視感があります。
全く同じ問いを、以前も立てたことがありました。

この映画で。

 

 

そのセリフと仕草について、多くの人がどういうこと? と問うた

 

 

 「あたくし、ずるいんです」

 

 

紀子(=原節子)が顔に手を当てる瞬間の挙動の速さとそのセリフと、義父(=笠智衆)の関係の描かれかたを思い出しました。
紀子は「どのように」ずるかったのか。

 


わたしは「紀子には再婚をする気がなく、職もあり細々とならひとりで食べていける。夫の親は優しい。かわいそうな戦争未亡人という状況が自分的にはまだ好都合だからそうしている」という意味と思っていたのですが、これはあくまで現代を生きるわたしの推測。

 


あとで以下の本を読んだら、山田太一監督が短い言葉でスパッと解釈を示されていました。

 


 あれは、”相手が打消すのを見越した偽善の言葉” だと。

 

 

なるほど。そりゃあ、ずるい。

 

 

話を『破戒』に戻します。
主人公の告白・懺悔のあとに、「生徒にも新平民がいるのに、なぜ先生に新平民がいてはいけないのだ」という問題提起が生徒からされる展開があります。

『実は、御願ひがあつて上りました。』と前置をして、級長は一同の心情(こゝろもち)を表白(いひあらは)した。何卒(どうか)して彼の教員を引留めて呉れるやうに。仮令(たとへ)穢多であらうと、其様(そん)なことは厭(いと)はん。現に生徒として新平民の子も居る。教師としての新平民に何の不都合があらう。是はもう生徒一同の心からの願ひである。頼む。斯う述べて、級長は頭を下げた。

この展開から逆引きすると、”相手が打消す” が成立しています。

丑松が保身の対策強化を行なった、というのは国語のテストで正解を獲得するサトヴィックな模範回答ではないけれど、現実社会を生きていく上では正解になったりする。

 


大げさなお詫びを見ると、なんだかなと思う。この様式を採用するに至る追い詰めかた、追い詰められかたのなかに、何かを終わらせるための国民の儀式を見るような気持ちになる。このテンプレの存在のしぶとさをつくづく感じました。