4月の満月オンラインヨガのあとに、わたしが観たドキュメンタリー映画『A』について話したいというかたがいらっしゃったので少しお話をうかがいました。
この映画です。
今日書くことは、そのときわたしが話したことの掘り下げです。
この映画は、 いまのわたしのように公開から長い年月が過ぎてから観た人にも大きな価値を与えるものと思いました。ドキュメンタリー映画は特にそういうところがあるように思います。編集者の意図が見えやすいから。
わたしの場合は先月『A』を観た時点で、そこに映されているオウム真理教の信者や麻原彰晃の年齢をとっくに超えていました。現在のわたしは、この映画に出てくる市民のおじさん・おばさんと同じくらいの年齢です。
社会人生活を東京で20年以上続けた現在の感覚で観ました。(1998年公開の映画を2022年に観ました)
そうすると、どう見えるか。
こう見えるんです。
わたしの頭の中を実況すると・・・
まだ30代後半で、この感じかー。
麻原彰晃、説法うまいな。
10代20代なら、がっつり引き込まれちゃう。
声も優しくてマイルドだし。(←ここ、なにげに重要!!!)
資本主義社会の未来にげんなりしていて、
自分はその枠にはめられたくないと感じている若者なら
なおさら惹かれそう。
就職先では出会えないようなメンターを求めている人が
この教団へ飛び込みたくなる気持ちは、すごくよくわかる。
と、このような感想が自然に起こりました。
信者の心の時計が止まっているのは、また別の話。
わたしは自分が尊敬していた人の年齢に近づいたり超えたりしたら、あの人は当時こういうふうに考えていたのかな、こういう経験をしたのかな、こういう社会だったからかなと、そういうふうに考えます。今ちょうど、自分がそういう年齢になっています。
いまも麻原彰晃を崇拝し続ける人は、自分で時計を止める選択をした人で、現在の自分が当時のグルの年齢を超えても関係性がそのままだと信じる気持ちは、わたしには想像のできないものです。そこに自分との相違を見ます。
「精神的な関係性を固定したい」という気持ちはすごくよくわかる。信仰を持ちたい気持ちもわかる。でも、同じ気持ちにはならない。なぜか。
対象と関わり続けるときに使う「記憶」の取り扱いが、どうやら違うようです。
さて。
これから書くことは、最初の感想には書かなかったことです。
わたしは『A』にある構成のひとつに、メインで撮られている広報副部長の男性と外部の女学生との交流、そしてその人がインタビューで女性経験を尋ねられる場面が織り込まれていたことが気になっています。
この時代(撮影:1996年)は ”草食男子” なんて言葉はまだなく、学歴も仕事も異性も獲得しなければいけないプレッシャーが、特に男性には強かったのではないかと思います。
当時からいまも継続して信仰を続けている人は「出家」が一時的な逃避だって、そんなことはとっくにわかっているはず。それでも生き続けるために、心臓が動いているから信仰をしている。
わたしはそんなふうに見ています。
20年以上経ってもこの映画のなかにある社会のプレッシャーは変わらないけれど、一部は改善もされていると思います。いろいろな人生の選択がこの当時よりは尊重されるようになりました。
これは、オウム真理教の事件から社会が学んだことかもしれません。
他人を信じる力が弱くなると、人権侵害をしてしまう。
ドキュメンタリー映画はこのように、日常の問題に対して距離を置いて振り返る時に、その思考に自分以外の具体例を与えてくれます。
しっかりとテーマに取り組んだものほど年月を経てからのほうが価値が濃くなる、そういうことがあるように思います。