うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

無人島のふたり 山本文緒 著

人間の性(さが)について避けられないところが書かれていました。

初回は著者の最期の言葉にたどり着くことをつい追ってしまったので、数日おいて二回読みました。

 

山本文緒さんが亡くなったというニュースを見たとき、やっとこの作家の作品の刺激についていけそうだと思えるようになった頃には、もう作者はこの世を去ってしまう。なんだかな……という気持ちになりました。

2020年に『自転しながら公転する』を読んで、ああそうか、自分が主人公たちの年齢を超えたからだと思いました。こういう痛みと距離をおけるようになったから読める。やっと読める年齢になったところでした。

 

 

わたしは20代の頃から少しずつ小説が苦手になって、苦手になる前に山本文緒さんの小説を三冊くらい立て続けに読んで衝撃を受けていました。

もともとコバルト文庫で読んだことのある作家のお名前、と思って手を出したら『ブルーもしくはブルー』の心理描写がすごすぎて。

以来ずっと自分のなかで ”恐ろしい心情を書く人” というイメージを抱いていたのだけど、『自転しながら公転する』の発売後にご本人がラジオでお話しされているのを聴いて印象が変わり、また小説を読みました。

 

かつてのわたしは、作品の心理描写がすごいと=恐ろしい人、と考える短絡的なところがありました。ほんとうは逆なのに。立場と心を客観視しているから文章にできている、ということがわかっていませんでした。

 

 

この『無人島のふたり』は、死に近づくにつれて少しずつ落胆とユーモアが少なくなり、読者が ”読ませてもらっちゃった・・・” と思うような日記です。

「うまく死ねますように」と書く著者は、「私は死後の世界も、来世も(前世も)特に信じてはいないけれど」とも書き、「今生で後悔していることがあるとすれば、語学を勉強しなかったことかもしれない」とも書きます。

自分が死に向かっている状態をありありと感じがなら生きる、余命がだいたい見えている生活。

 

 

人間の心は他者の評価と承認を求める。それが人間の性(さが)だということに向き合う記述がいくつかありました。

オリンピックについて語る部分を読んで、頭の中で多くの人が思っていることが見事に日常の言葉で書かれていることに、なんとも言えぬ気持ちになりました。

たとえどんなに利権にまみれたものであっても、自分がアスリートだったら、そのアイデンティティを死ぬまで心の中に聖火みたいに灯すだろうと。

直木賞を渇望して実際に受賞した人の、正直な視点。

 

 

最も印象深かったのは、もう長生きしないことがわかって高価なものが買えるけれど、着ていくところも見せる人もいない。そんな状況で綴られる、このつぶやきでした。

それって自分の欲ですらないってことだろうか。他人の欲を刺激するために高価なものってあるのだろうか。

こういう流れは小説で展開されるモノローグと似ていて、特性がそのまま出ている一文です。

 

 

自分の欲は、むしろ「やりたくないこと」のほうに強く現われる。

わたしはずっと、そっちのほうが自然だと思ってきました。この本を読んだら、だからこの作家の文章に惹かれるのだと思いました。

「これは嫌!」というのが昔からはっきりしていたからこそ、私は生まれ育った土地を出たし、会社を辞めて作家になったし、仕事量も増やしすぎなかった。

この本では、これは自慢に見えるだろうから明かさなかったとか、嫌われるからこういう話はしないようにしてきたとか、そういうことも吐露されています。

 

「これは嫌!」ということに巻き込まれないように、そのトレード・オフとして控え目にしてきたことが明かされ、この国で死んでいく人の生存戦略が最後まで貫かれています。

もう身体は死ぬってわかっているのに貫かれる、わきまえた心の生存戦略

 

 

書店で「いまわたしこれを読んで、毎晩泣いてる」と友人に言ったら、友人もその場で買い、読み始めてすぐに「冒頭から胸がいっぱいになる」というメッセージが届きました。

闘病記でも逃病記でも日記でも遺書でもない。言葉で伝えられることの新境地を開いてこの世を去っていかれた。矛盾のありかたがそのまま書かれた、とてもやさしい文章です。