うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自転しながら公転する 山本文緒 著

わたしは20代の頃、あまり本が読めませんでした。物語を文字で追うことができませんでした。自分のこれからがどうなるのかばかり気にしていたから。
文字を読んでも、なにも掴めない。そこからなにかを思ったり自分の考えと結びつくこともありませんでした。そもそも自分の考えがなかったのでした。


30代の前半からよく本を読むようになりましたが、小説はほとんど読みませんでした。こうすれば人生がよくなる、こうすればスキルが身に付く、ヨガも含めてノウハウの本ばかり読んでいました。自分にはまだ気づいていない能力があるかもしれない、そんな漠然とした期待の火に油を注いでくれそうなスピリチュアルで思わせぶりな本も、ヨガの勉強の延長のフリをして読みました。自分のこれからがどうなるのかばかり気にしていたから。
このブログにせっせと記録されたかつての本の感想を読むと、薄っぺらくて雑な女性がそこにいます。このわたしです。

 

20代30代は、自分の年表のなかで「そういう時代」だったのかもしれない。この小説を読みながら、当時のあれこれを思い返すように湧き上がる感情をあらためて確認しました。侮蔑も値踏みも居場所のなさも、つらい記憶はその都度なんとか追いやって、持ち直してはまた振り出しに戻る。このくり返し。
わたしもこの主人公と同じ感情に支配されていました。

勝手に持ってしまった罪悪感を消すことができなかった。

原罪の感覚がない人間なんていない。勝手に持ってしまったなどと思わなくていいはずなのに、勝手に持つのがこの意識。


わたしは宗教やスピリチュアルにハマる人を見ると、同じ苦しみを抱えていると感じます。同じ道を選ばないだけで苦しみの性質は近い。この小説では、主人公の「職種」をキーにそれが見事に解説されます。主人公の都(みやこ)は洋服屋の店員をしていて、ファッションに対する考え方と自分の人生を重ねながら、こんなふうに自分自身をその都度納得させています。

服には、その服を着る必然性が要る。もし、素敵な服が好きでそれが着たいのならば、そういう服を着る必要のある生活をするしかない。

かっこいい仕事をしているかつての仕事仲間を見て、こんなことを考える。他人と比較をする場面なのだけど、当人の仕事の経験を通じて書かれます。
恋人を家に連れてこいと親に言われて服装に悩む場面では、こんなことを考えています。

何を期待されていて、それにどう応えるか。何を主張したいか、主張を声高にしたいのか匂わせる程度にしたいのか。そういうことを表現するのが、都にとっての「着る」ということだ。

 

(中略)

 

考えて着ることは配慮と主張のバランスだ。

なかなかの説得力。デキる女のノウハウのようです。りっぱな衣装哲学です。でもこの人の核はいつまでも見えてきません。彼女はその核のなさを周囲の人から指摘され自認もしています。それが世代を引き継いで少しずつしか変えてゆけないものであることまでは、もちろん想像していません。

 

わたしもそうでした。もしかしたら40代からの時代感覚の違いは、ここにあるんじゃないか。わたしは最後まで読んで、そんなことを思いました。

表面上達観したようなふりをするのはキャラづくりとして服を選ぶように、そうすればいい。でも内面ではしっかり葛藤をしておいたほうがいい。そうしないと、きっとこんな生きかたになる。

バランスを取るだけ、リスクヘッジをするだけ

バランスは取るものではなく見つけるものと考えるようになるまで、わたしもそうとう苦しみました。でもしょうがないよね、日本語だとバランスを「とる」っていうんだもの。見つけるって言ったって結果は「落としどころ」であって、リスクは少ない方がいいけれどもこのくらいならいけるかな…という判断の連続。

この小説ではその判断の連続を、主人公の周りのそれぞれの人物がやっています。人間関係は値踏みの応酬で、なかでも男女の関係性の描かれ方は異様なほどリアル。主人公の扱われ方はまるで相席スタートの名作漫才『振ってまう球』そのもので、「俺、あのくらいのちょいブスが好きなんだよ」と陰で言われる場面や、それに近しい評価をされます。
変に団結したり美化することのない同性のやりとりもいい。薄い関係の人からはちゃんと期待を裏切られる。ちゃんとというのもヘンだけど、でもこの場合は「ちゃんと」と言いたくなる。そのくらい、関係性の濃淡が丁寧に書かれています。

 


冒頭にも書きましたが、わたしは20代の頃に小説が読めない時期がありました。「リング」「らせん」のような当時ブームになった本のほかは、江戸川乱歩星新一のように現実の社会生活と結びつけなくていいものがなんとか読めたくらい。そんななか、そういえば読めた作家がほかにもいたわと二人の作家の名前を思い出しました。ひとりは町田康さんという人で、リズムと勢いで読めちゃう面白さに驚きました。
そしてもうひとりが、この本の著者・山本文緒さんです。今年の秋に「しらふで生きる 大酒飲みの決断」を読んで、やっぱりあの頃でも読めた作家の本はおもしろいな!と思って、そのしばらく後にラジオで山本文緒さんが7年ぶりの新刊小説が出るとお話しされていて、気になって読みました。


ものすごく経験のある感情が次から次へと出てきて、このパンチは効くなともだえる、でも物語は淡々と進んでいく。同じようにしんどい生活が並行している中で現実逃避をしていた20代のわたしに、この速度はジャスト・フィットだったのかもしれない。どこかなつかしい感覚で、しんどいけれど夢中で読みました。自分で自分に価値を感じられない、漠然とした焦りがとにかくリアルなんですよね…。いろいろなことが思い出されました。

いまはずいぶん考えかたも広がって、自分で自分に価値を感じる感じないはさておき今日もこの肉体にあるハートのスイッチはオンになっておりますという感じになったけれど、かといってこの小説の中にあるような気持ちが絶滅したわけじゃない。

気持ちと記憶について、振り返りのきっかけを得ました。

 

自転しながら公転する

自転しながら公転する