先日、関西でヨガをするみなさんと読書会をしてきました。
課題図書は中勘助の『提婆達多』。古本でしか入手できない本です。
当日会場で準備をしていたら、本のバージョンの情報交換が聞こえてきました。
「いまここ、日本で一番この本が集まってる場所ですよね」
とおっしゃるかたがいて、本が古い! という話からはじまりました。
題材が題材だけに途中で何度もどんよりして、「ごめんなさい、暗くなっちゃいましたね・・・」なんて言いながらまた立ち直って……の繰り返し。
人間の心のナマな部分が緻密に書かれすぎている本です。
感想として沸き上がる意識を刻んで散らして丸めてみたり、形を変えてみたり、固めてから切り離してみたり、そしてまた繋いでみたり。
同時代を生きる誰かと一緒に手間と時間をかけて読んでみることで、どの角度から見たときに自分の物語になるのか、なってしまうのか。その視点をじわじわ探ることができます。
気軽な感想としては、作品と主人公の提婆達多についてこんな声が上がっていました。
- 官能小説みたい
- 描写が美しすぎる
- どんどん読まされた
- ほんと嫌。だけどこれ、わたし……
- 落ち込んだり自分を責めたりする人でもあるんですよね……
『提婆達多』は、えぐい・きつい・入手がめんどくさい。
これだけの悪条件が3つ揃っていたにも関わらず、今回開催にチャレンジしたわたしの気持ちを最初にこのように話しました。
少しでも若いうちに、この本でやりたかったんです
当日は冒頭で中勘助のインド三部作の話をしました。
ヨーガの読書会だから、ヨーギーが登場する『犬』でやりたかったんだけど、それだとキツすぎるし、『菩提樹の陰』だとユルすぎるんです。そんなわけで『提婆達多』にしました。とお話ししました。
わたしは『犬』を読んだとき、こんなことが衝撃でした。
隠遁してヨガの修行を重ねたら自動的に聖者になるわけじゃない
『犬』は、老いたヨーギーの物語です。
そして老いていく仏僧の物語『提婆達多』を読んだときに、こんなことが印象に残りました。
年齢を重ねたら自動的に成熟したりああいう欲がなくなるわけじゃない
食欲は減っていきます。それは中年の時点でも少しわかります。
消化力がじわじわ下がってくるので、そこにエネルギーを使うと他での集中力がなくなってしまいます。
物欲も減ります。そもそも物がたくさんあっても管理できなくなってきます。
わたしの周囲ではすでに「新しいスマホに買い替えても使いこなせる機能は一部だけ」と話す人が少なくありません。
性欲も睡眠欲も同じように語ることができます。こういうのは他人と話しやすい「欲」です。
そういう欲じゃなくて。
そんな解像度の欲の話じゃなくて。
これ・・・。この欲、このエネルギー・・・
言葉が見つからない、見つかりそうで、見つからない。
見つかっても、口に出すことを躊躇してしまう。それほどの欲。それは70歳になってもあるらしい。
この物語は、まるで
欲の事例図鑑
ページをめくるたびに、欲の具体例が飛び出します。
中勘助の描く『提婆達多』は、そのパーツに糸を通して繋いだような物語。
中心の糸をパチンと切ってパーツがバラバラになっても、その一個一個が「しっかり」書かれています。まるで写真のように見える絵のような細密さです。
ひとつひとつの玉が、すべてみごとに濁っています。
そして、その濁った玉の表面ひとつひとつは丹念に磨き上げられている。
濁っているのに光っています。
澄んでないけど光ってる
内側から光るのではなく、反射で光ってる。
そんな濁り玉も、ときどき「澄む」瞬間があって・・・。
この清濁のアップダウンに呑み込まれているうちに、読むのをやめられなくなります。
* * * * *
わたしは「澄む機会」は欲を認めないと捕まえることができないものと思っています。
だからこの物語の主人公に惹かれたし、ヨガで身体を動かしながら知り合った人と一緒に考えたいと思いました。東京で一緒にヨガをしている人で三部作を読んでくださった人とは、時間がいくらあっても足りなくて何時間も話したことがありました。
読書会という形式は装置です。こういう内面の話は、箱を設計しないと話すことができません。真面目か! って言われちゃうのでね。
だけどヨガを続けていくのなら、こういう言語化もできるようになるのがいいと思うのです。頭の中にある漠然とした呪詛に向き合うことをひとりで繰り返すと、この物語の提婆達多のようになってしまうから。
陰と陽のバランスのように、真面目もふまじめも使いこなしたいわたしです。
(ご参加くださったみなさん、ありがとうございました)
そのオロナインみたいな持ち方に騙された〜、劇薬だった〜☆ なんてどうかおっしゃらずに、また開催の際にはお付き合いください♡