先日、少し前に生活のあれこれをガラリと変えた人と仕事でオンライン電話をしていたときのことです。
途中で「すみません、ちょっと猫が・・・」と会話を中断された流れで、今日のタイトルのような話になりました。
会話に戻られたときに、その人が最近飼い始めたという猫の話になりました。わたしがボソッと「そういえば、わたしの周りは40歳くらいで猫飼い始めた人が多いな・・・」と話したら、急に「その話、もっと聞きたいです!!!」と言われました。
年齢も暮らしぶりも、お互いこれまで一度もプライベートな話をしたことのない間柄だったのですが、そこから雑談が始まりました。
* * *
彼女は自分自身が “おひとりさま” の前提で生活設計に舵を切っている気がして、これでいいのかなと思っているようでした。
わたしも30代40代でいろんなことがあるにはあったけれど、ライフイベントは逆に “何もなさすぎ” でした。
それでもその時期に気づかされてよかったことに
牙城を築かない
というのがありました。
自分の現状とそれまでに行ってきた選択に対して、自分の望む因果関係を肯定する本ばかりを読んで、外堀を埋めるためにレンガを積み上げる。
そうやって自我を守っていたのを、ガラガラガッシャーンと壊された出来事がいくつかありました。
今日の話は、現在の自分には関係のない話だなと思ったら、特に耳寄りな情報はないのでどうぞ離脱して(ブラウザを閉じて)ください。
(シャッ)
(閉じました?)
続きいきますね。
がじょう
この「牙城(がじょう)」という言葉をタイピングしているとき、わたしの脳内で浮かぶ字は「我城」です。
冒頭の彼女から「それって、定年したおじさんが陥るやつと似ていますか? わたし、それが想像できるんです」と言われて、「うーん」と言いながら自分の中を掘り下げたのですが、少し前に読んだ『孤舟』という小説で読んだようなマインドとは違います。
築いたものを崩せないのが “定年したおじさんが陥るやつ” だと思うのですが、それよりも、”築くことをやめられない” のほうが正確な気がします。
スタート地点が違っています。
個々の時間軸がテンプレ通りじゃないからこそ、話してみる
わたしの場合は40代後半ぐらいから、同世代の人との会話で知ることが変わってきました。
親よりも兄弟姉妹に先立たれた人がいたり、「 “前の” 夫が(妻が)」というさりげないフレーズから現在の人と再婚であることを認識したり、過去のお見合いや婚活経験、そこからの自尊感情を明かしたり。
ずっと話してこなかったことを持ち回りの苦しみのように、深刻さを薄めて話せるかどうかの境界に「がじょう問題」がありました。
他人が入ってこれない場所に住みたいと思うほどには、自分は孤独を愛していない。
あの手この手で城壁を砕いて溶かして浄化して、それを練習と捉えてやっていくほうが、人生が想像以上に長かったとしてもそうでなかったとしても、賢いんじゃないか。
こういう考えに至ったときに、「自由」という言葉の内実が変わってきました。
「自覚」は自覚してないと自覚し続けられない
わたしは過去に「がじょうスタイル」で自分の心を頑なに守っていることを自覚できているつもりが、いつの間にかその城に幽閉された姫になっていたことがありました。
意識のどこかにお姫様願望を残していたから、そういうことになったと思っています。
「わたしをこの城から助け出しに来てくれる人がいない!」
(その城はそもそも自分でこさえたんだろーが!)
「殿、ご乱心めさるな!!!」
「わたしは誰~」
という壮大なコントをやっていました。
殿・姫・老中のひとり三役をしている最中に、老中の登場で気がつきました。
「殿、ご乱心めさるな!!!」って自分で自分に言ったのでした。
なーんてことが、過去にありました。あったんですよぉ〜。
これからもあると思います。
ヨガは Personal Journey だから。
旅の途中で何度も妖怪が登場するんです。(←西遊記の見すぎ)
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今日の結論:
わたしはバカ殿から多くのことを学びました!