この物語を読みながら、わたしのなかで「欲望がないから影響されやすい」というのは本当だろうか、という気持ちが何度も行ったり来たりしました。
目の前の人に影響され自分の心を支配させてやることで支配欲を満たしている人というのは少なくないし、わたしはカルト教団ってこういう人が集まって教祖を創り上げ育ててていくというふうに見ているところがあるから、カルトの信者のエッセンスを凝縮したような人だな…というふうに見ました。間接的なコントロール欲が強い人って、けっこう多くないかと思うのです。
なので、この小説の中で「あいつのああいうとこ、俺が洗脳しちゃったのかも。俺のせいかも」と言う人が続々登場するのがおもしろい。自分が影響を与えたと思いたい人たちが競い合っている。
太宰治をあんなふうにしてしまったのは私、といろんな女が思っているのと似た構図を男性同士でわちゃわちゃやっているのが、妙に滑稽でジワジワきます。
この小説には芸術家とからむ女性が3人登場するのですが、誰も根本的にミューズになりたがってない。芸術家が二人出てくるけれど、誰もべつに影響を与えたいわけじゃない。まずは生活第一。女性はこんなにも現実的なのにミューズだファム・ファタールだと外野だけが言っている。この感じにリアリティがあるのもいい。
警察からあなたはストーカーだと言われてギョッとしたという人の以下のセリフも、あまりに日常に近い。
「……僕はストーカーじゃないと思った。だって、彼らは女性に嫌われ、怖がられてもいる人間達だ。……でも僕の場合は違う。彼女はただ僕のことを知らないだけで、これから好きになるのにと。……でも、こういうのがストーカーなんでしょう。僕は絶望しましたよ」
刺激しないでおこう、という判断で他人の好意をかわすときに、わたしは主観のむずかしさはこのセリフが成立する心理にあると思ってきました。そうかこの流れでなら説明できるのか、と思いながら読みました。
好きになる前提を強要されている、という場面て、意外と少なくないものです。それは、たとえば入社した会社での決起集会みたいな場所で感じることもあるし、ネットワークビジネスの説明会なんてまさにそんな感じじゃないか。
恋愛感情や執着をベースに書かれている話ではあるけれど、ふと気になったセリフを読み返すとなにかの違和感の記憶とマッチすることが何度かありました。
影響されやすい人間のありさまと末路を描きつつ、周辺の人物もまたパワーバランスにふりまわされている。心の中のねじれたプチ快楽のオンパレード。で、あっという間に読み終わってしまう。ジェットコースターのように、降りられない。いっきに読まされました。