うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

母親になって後悔してる オルナ・ドーナト著/鹿田昌美(訳)

原題は『Regretting Motherhood』で、2008年に開始されたイスラエルでの調査(対象者23名・すべてユダヤ人)をもとに書かれています。なんだn23の話かと思うかもしれませんが、その対象者の選びかたも重要なコンセプトになっているので、たった23人と思うのは早計です。

 

母が自分を大切に思ってくれているのはよくわかる。が、どうやら母であることがつらそうだ。── 子ども側の視点でこんなふうに思ったことがある人って、すごく多いんじゃないかと思います。

責任の話かと言われたらまあそうなのだけど、この本が示してくれるのはそれ以前のところにある、 ”親にならなければ社会の一員になれない感じ” の、”感じ” のところ。

 

 

以下は日本でも明治時代の家制度がなくなったあと、 あえて語らないものとして透明のテグスで網を張るように強く編まれ、踏襲されてきた現実です。

 多数の母にとって、母になる主な利点は、成熟した感覚を持てること、子どもとの健全な関係を築く道徳的能力を証明できたという感覚にあるようだ。それによって、自身と自分の家族、コミュニティや国との関係に秩序が生まれる。自分が暮らす場所に対する所属感を得ることは、彼女たちの視点では、母にならなければ不可能だったのだ。

(3章 母になった後悔/母であることのメリットとデメリット より)

所属感を得るためには母親になるしかない。こういう感覚になる人が少なくない社会の様子が、回答者のコメントから見えてきます。

 

 

わたしは東京都内で暮らしていますが、2年前(コロナの直前くらい)にこんなことがありました。

地域の施設で顔見知りになった70代くらいの女性から、わたしの自転車に子どもを乗せるシートがないことをチェックされ、「お子さんはもう大きいの?」と尋ねられました。

ひとりで生活をしている答えたら「えっ、じゃあ、なにも心配することがないってこと?」と混乱した様子でした。このディスコミュニケーションの瞬間に、わたしはこの本に登場する23人のイスラエルの女性たちと近い感覚を味わっています。

 

 

この本の最終章では、資本主義社会と関係する問題について、著者の視点が語られます。

 女性の選択肢は母になるかキャリアを持つかの2つしかないと考えることで、母になりたくない理由はキャリアの追求以外にないと仮定することは、女性のアイデンティティの多様性を消し去ってしまう ──「完璧な女性であること(つまり母であること)」または「男性のようになりたいこと(つまりキャリアに焦点を合わせること)」以外のアイデンティティがなくなるのだ。

(6章 主体としての母/母であることの満足度:条件だけが問題なのか? より)

 

「良い」母には、資本主義の競争的で個人主義的で人間味に欠ける関係性のロジックを拒否することが期待される(その代わりに寛大で、無私無欲で、思いやりを持つべきとされる)ため、後悔する母は、一見、資本主義と密接な関係性の融合の明確な証拠のように見えるかもしれない。

つまり、コストと利益を冷静に計算した結果なのだと。この考えに従えば、後悔する母は、「公共圏」にのみ存在する超合理性を求めて、非母(ノンマザー)に戻りたがる冷血な女性として認識されるのだ。

(6章 主体としての母/客体から主体へ:人間としての母、関係性としての母性 より)

母になりませんでしたという女性を「キャリア志向の人」orコスパで考える人」のどちらかに寄せないとその存在を受け止められない社会について語られています。

実際はどちらでもない人が多いはずなのだけど。

 

 

この本を読むと、ユダヤ教の宗教観のなかで母にならないことの厳しさが見えてきて、これまで海外の旅先でいろんな国の人と知り合いになったり友達になったりしてきたけれど、なかなかこういう話は聞けないもの。

著者は母親にならなかった年配の女性を対象とした調査もしたそうなので、いつか出版されたら読んでみたいです。