ここしばらくで、立て続けに同じようなことを考える機会がありました。いろんな人とお話をする機会が少しずつ増えてきたのでね。
他人の話やふるまいを見て「ところであなたはいま、まだそのような暮らしかた・考えをしているんですね。かわいそうに」と言われているような気持ちになるときのことについて考えました。
この気持ちの醸成プロセスは個人単位でまったく違うので、劣等感や嫉妬という言葉で片付けられるほど単純な話ではありません。
わたしは友人・知人からこういう気持ちの話をされると、ときどきこんな仮定の話をします。
「わたしがもしなにかで逮捕をされたら、まあまあクリックされそうな一行を作れると思うんです」と。仕事のないタイミングで逮捕されれば、名前(年齢)+無職と記載。そこにふだん通りのぼんやりした顔写真でもあれば、編集的には小さくガッツポーズ。そこそこクリックされそうなニュース記事の一丁上がり。
親世代もまだ生きている人の多い就職氷河期世代とその前後の世代は、不安をあおるコンテンツが多く消費されやすく、しかもそれはあと20年近く続きます。「かわいそうな人」とも思われることも、まあまああるでしょう。
これは数の話。算数の話です。
・・・でありながら。それはそれとして。
展開次第で「かわいそうな人」のイメージはあっさり覆されます。いったん「べつにかわいそうじゃないのでは?」の流れになれば、「ヨガをしているのか。ケッ」「昨年海外旅行に出かけているじゃないか。いい気なもんだ」と、ペタペタペタペターっとオセロの色が反転する。数字の重量感を絶対的なものと感じれば、口をつぐむしかない状況になります。
さらにそこで風化を待てないとなれば、消えたい思いを可視化しない限り、「かわいそう」を証明できない。そんなふうに考えて証明したくなる人間の心について、わたしは夏目漱石の「こころ」を読んで想像したことがあります。(あれはそういう話だと思っています。これはわたしの解釈です。気になる人は読んでみてください)
── そんなこんなでね。
他人の話やふるまいにモヤモヤするという話をされ、それが盛り上がるたびに、ところであなたの抱えているそれは「かわいそうな人になりたくない気持ち」なのか「相手をかわいそうな人にしたい気持ち」なのかと聞いてみたくなることがあります。わたしはよくひとりでこの問いを繰り返すようにしています。この問いかけをやらないと、救いようのない人になると思っている。
こういうことを考えるのはめんどくさいかもしれないけれど、社会のなかで生きていくうえで絶対に捨てようがない考えじゃないかと思います。そういう仕組みから外れて生きていく方法がもしあるとしたら、教えてほしい。・・・とはまったく思いません。
もし「教えてほしい」と言ったら壺や石や水晶玉や合宿やセミナー以外にどういうお誘いが来るのかちょっと興味はあるけれど、それは下衆な興味です。
わたしは常日頃「他人をかわいそうな人にしたい気持ち」をかなり注意深く取り扱うべき感情と思っているのですが、無意識レベルで扱っていることがあります。
だからこのことに気づきあって、生かしあっていきたい。誉めあいたいのではありません。生かしあいたい。最近はそんなことを考えています。わたしは年々、友人とこういう話をするようになっています。
人数が多いって、おもしろい人も多いってことですからね。これはポジティブ・シンキングではなく数の話。算数の話です。