うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

破戒 島崎藤村 著

主人公を取り巻く人物の職業や人間関係が巧妙に配置されていて、想像以上にいろんな読み方ができる小説でした。口語で聞くとわからないけれど、”破壊” ではなく、”破戒”。この「戒」がものすごく重い。重いものであってはいけないのだけど。
素性を知られたらいじめられることがわかっている人の心労苦悩が丁寧に織られたこの結末をハッピーエンドと見るか否か、そこでまた議論が生まれるように書かれている。最後はページをめくる手が止まらない展開なのだけど、それまでじっくり安定して続く "嫌な予感" の引っ張りかた・長さ・エピソードのつながりは、よくここまで引いた目線で書ききったものだと思うほど。


この小説ははじめ自費出版で出されたそうで、そら読まれるだろうよというくらい刺激的な内容です。
始終あたたかな雰囲気で地方の人々のコミュニケーションが重ねられていくのだけど、状況はどこまでもえぐい。この表層的な平和と向上心とえげつない差別のバランスは見覚えがあります。


これはまるで、昭和の時代からある企業を現代のIT企業が救済する形で買収し、中の人が移ってきた場合に起こるあの現象とよく似たもの。新社員という設定の人をいじめる人が繋がっていく。上昇中の企業を利益のために買収したときはあからさまに新社員の存在を警戒するのに、逆の場合は驚くほど露骨に差別的いじめをする人が出てくる。現代の東京で見る現実と「破戒」の世界はよく似ている。

じわじわと日常的に "いじめていい根拠" を確認し共有する人々が、その先のことを想像せずに習慣化していく。同時に、個人的な人間らしいつながりもひっそりと時間とともに着実に積み重ねられていく。残酷なこともあたたかいことも、どちらも自然現象のように起こる。

 

この小説は人間関係の積み重ねのあたたかさが感動ポルノに陥らない抑制力で書かれつつ、水戸黄門のエンディングのようなざまあみろ感もそれなりにあって、絶妙な感じで揺さぶってくる。人間の残酷さとあたたかさのバランスを読者は問い続けることになる。

 

わたしは読みながら「もし自分がこの人物の立場だったら」と、多くの人物について思いを巡らせました。主人公だけでなく、同僚、同僚の家族、親戚…。なかでも、わたしは子供をたくさんもつ同僚家族の存在が気になりました。
経済的な問題はあっても、この身分で生まれてくるのは気の毒だという考えを持つ必要はない人。その妻、その子供たち。
人間の尊厳やつながりや、そこに込められる心について、取り扱いのむずかしい感情に悶絶する瞬間がいくつもあります。わたしはもうとっくに大人の年齢になっているので、こういう読書を後回しにすることはできません。
肌の色では見分けのつかない差別のしんどさを我が身のように疑似体験できる。なんとも貴重な読書時間でした。

 


さて。
この小説は有名なのであらすじも知っている人が多いようですが、わたしが読もうと思ったきっかけは長野県小諸市の散策。与良町でお話を伺ったのがきっかけでした。

 

この町で、「破戒」の物語に出てくる部分について教えてもらいました。島崎藤村の小説に登場するひとりの人物のモデルとなった人の子孫だというかたから、お話を伺ったのでした。少し高台にある場所で、以下のくだりにある地理を教えてもらいました。

以下は「破戒」の登場人物のひとりがする、噂話のセリフです。

小諸の与良といふ町には私の叔父が住んで居ます。其町はづれに蛇堀川といふ沙河が有まして、橋を渡ると向町になる――そこが所謂穢多町です。叔父の話によりますと、彼処は全町同じ苗字を名乗つて居るといふことでしたツけ。其苗字が、確か瀬川でしたツけ。

<第拾四章(三)より>

「破戒」では、こういううわさ話の積み重ねで、差別をされる人がじわじわっ、じわじわっと追い詰められていく。
この追い詰められかたの恐怖は、それなりにアウェイな場所にも身を置いて年齢を重ねてきた人であれば、誰もが経験記憶として持っているんじゃないかと思う。でもそれは一時的なこと。生まれながらのラベルじゃない。だからトラウマだなんだと言いながらも、ときどきは忘れられる。
この「破戒」に出てくる人の状況は、そうではありません。なので読んでいるときはとてもつらいのですが、読後は必ず読むべきであったと思うような、そんな物語でした。
いやぁ、びっくりしたー。読み終えたのはだいぶ前なのに、けっこう長く印象を引きずっています。

 

破戒

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