うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

パアテル・セルギウス レオ・トルストイ著  森林太郎 (翻訳)

毎年同じことを言っているようにも思いますが、今年もよい本との玉突き事故的出会いに恵まれ、青空文庫にあったこの物語を読みました。翻訳は森鴎外
先に書いておくと、同じトルストイの『光あるうち光の中を歩め』や、ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』(岩波文庫新潮文庫草思社文庫)、中勘助の『提婆達多』を読んでその記憶を保持している人なら、きっと「こんな本あったの!」という気持ちでぐんぐん読んでしまうでしょう。

 

それにしてもこの小説は、そんなに長い話ではないのにエピソードの葛藤濃度がすごく、ダシが効きすぎです。いま食べた具材がなんだったかすぐに忘れてしまう鍋のよう。そのダシとはもちろんエゴであり虚栄心であり、かつ、動物的欲求。

 

そしてこの本は、なぜか日本のヤクザ社会にある「けじめ」という行為、その忠誠心と信仰の関係性に想いを馳せることになったり(読めばわかります)、そこから会社組織が忠誠心で回る日本企業の異様さを思ったり、トルストイは絶対全くそんなつもりで書いてないはずなのですが、現代日本人が読むと自分のなかに沸き起こる発見もある。とにかく読みながら自分の記憶が意外な形で掘り起こされる。

まあここは読めば分かるところなので、読む人は読んだときに「これか!」と思ってください。

 

さて。
この本を知ったきっかけは、里見弴先生の『文章の話』でした。
この講義がとんでもなく素晴らしいのですが、その第4章「自他と意思」の中で、いまはまだ早いけど二十歳を過ぎたら読んでごらんなさいと、カッコ内でさりげなくトルストイの『神父・セルギース』をおすすめされていました。

この講義は自分で自分につく対内的な嘘がわからないようでは文章を書いてもしょうがない、そしてその嘘は毒素であり、長い潜伏期間とともに自分に廻りきって馬鹿になる。馬鹿ほど始末の悪いものはなく、しかもちょっと一見したところでは馬鹿に見えにくい点にこの病気の特徴がある。
ということをかなり分解して、しかも町内のやさしいおじさんのような口調で書かれている名著なのですが、特に前半はまるでラマナ・マハルシの説法のようです。なのに語調は昭和のおじさんであるところが、現代の中高年にありがたい。

 

『パアテル・セルギウス』は虚栄心と罪悪感がセットになって沸き起こる苦しみがサブウェイのサンドイッチのようにぎゅわーっと重なり連なるような物語で、虚栄心と罪悪感を混ぜない練習を、自分の代わりにセルギウスがやってくれる。セルギウスが血を流してくれる。体を張って。
もうこれ以上は書かないほうがいいですね。読む楽しみが減っちゃうもんね。このへんまでにしておきます。

 

パアテル・セルギウス

パアテル・セルギウス

 


▼紙の本ではこの中で読めます

(008)罪 (百年文庫)

(008)罪 (百年文庫)

 

 

▼映画にもなってる