同じ作品が訳によってこんなに違って感じられるのかというくらい、先に読んだ草思社文庫の「シッダールタ」とはまた別の性格を感じる主人公でした。
ひとことでいうと、こっちのシッダルタのほうが 「やなやつ」です。これまで意識高い系という言葉はいまひとつ使い方がわからなかったのだけど、きっとこういうときに使う。この「やなやつ」っぷりがあとで効いてくる感じがすごい。
修行者のエゴってこういうものでしょ? と、あとからじわじわくる。謙遜の語調・文脈に見えるけれど実は対話相手を心の底で見下していることがバレている、そんな痛さが伝わってくる。あああーーー ーわかってきたぞ…、、、意識高い系って、ひとことでいうと
理論武装が上達すること
なんだ。
このバージョンで最後まで読んでみて、先に読んだ本の印象と比べることで、そんな発見がありました。出版の順番としてはこの岩波版のほうが古いので、先に読んだ草思社版のほうが主人公の脳内モノローグもトークもまろやか。岩波版のほうがストイックな印象です。
その違いがわかりやすい部分が「カマラ」という章にあるので紹介します。(先に草思社文庫、あとが岩波文庫)
なぜガウタマはかつて、悟りの光に触れたあの運命のときに、菩提樹の下にすわっていたのか? 彼がひとつの声を、この木の下で休息せよ、と命ずるひとつの声を聞いたからである。そして彼はその声の命ずることのほかは、禁欲の行(ぎょう)も、供儀も、沐浴も、祈禱も、飲食も、眠ることも夢見ることもしなかった。彼はその声が命ずることだけをしたのである。このように外からの命令ではなく、内なる声の命令だけに従うこと、そうする心構えをしていると、それがよいことであった、それがどうしても必要なことであった、そのことのほかは何も必要ではなかった。
(岡田朝雄 訳/草思社文庫)
なぜかつて仏陀ゴータマはまさに「時」の中の至高の「時」に、あの菩提樹の下に坐していて、正覚(しょうがく)を得たのか。それは彼が声を聞いたからである、この樹の下に憩えと命ずる自己の内部の声を聞いたからである、彼は禁欲、犠牲、沐浴ないし祈禱、食と欲、眠りと夢、それらのいずれの道をも選ばなかった、彼はその声に従ったのである。このように、外からの命令に従うことなく、内なる声の命令だけに従うこと、そうする心構えをしていると、それがよいことであった、それがどうしても必要なことであった、そのことのほかは何も必要ではなかった。
(手塚富雄訳/岩波文庫)
この部分を読み比べながら、他人のことを類推する中で「選ぶ」「従う」という動詞で思考するって、ちょっと狂いかけてるのかな…と思いました。他人の努力を自分の心の武勇伝の装飾材料にする盗みの思考に見えてくる。これは、自己啓発本を読んで気持ちよくなるマインドと種は一緒? わたしもやってる! ぎゃー。穴を掘って入りたい。(自分で掘ります。コメリで買ったスコップで!)
「シッダルタ」は類推と行為と振り返りが延々繰り返される物語の中に、多くの引っ掛かりがあります。これでもかというくらい。いい小説だわ…。
- 作者: ヘルマン・ヘッセ,手塚富雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2011/08/19
- メディア: 文庫
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▼こっちのほうが若干イライラしません
▼ご参考までに