エーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読んで愛は技術だと教わり、練習が必要であることを知った。あの本を読んだのは3年前。そんなに昔ではなかったから覚えていた。
愛は練習をしないと共依存の関係に陥る。本人がそういうものだと知識を持っていても、練習を避けていたら身につかない。
アガサ・クリスティはまどろっこしい説明抜きに、それを物語で伝えてくれる。
メアリ・ウェストマコット名義作品のすごさは、初めて読んだ『春にして君を離れ』でじゅうぶんすぎるくらいわかったけれど(再読してさらに打ちのめされた)、この『愛の重さ』も再読をせずにはいられない内容。
事件ではないから探偵が出てこないだけで、やっぱり心理サスペンス。家族間・男女間・そして神と人(=人と人)の支配関係。わかっちゃいるけどやめられない状態に陥っている登場人物たちが、みんな微かに狂ってる。
こんなに場面チェンジが多いのに、驚くほどするする読める。背景説明を急がず会話の展開で進めていく。読んでいて気持ちよく、かつ、ものすごく気持ち悪い。
再読すると、発言者の意図にあとになってから「ぎゃあああああ」となる二度目の味わいが用意されていて、恋愛小説のシリーズとされているけれど、これはスピリチュアル・ジャーニーのサスペンス小説。
わたしがこの物語を勝手に一行で要約すると
承認欲求から解放された女の末路
しあわせそうで、不吉でしょう?
この小説には客観視点を失わない人物が一人いて、これがなかなか曲者キャラで最高なのだけど、その人物が放つ言葉が再読するといちいち沁みる。
なかでも以下のシンプルなツッコミはガツンときます。
敗北主義か!
元の英語ではなんというのだろう。辞書で敗北主義を調べたら「Defeatism」とある。
そうか、日本語ではこうは言わない。悲観的ともちょっと違う何か。
わたしはヨーガの教典を読むときに、サンスクリットには心の状態をあらわす言葉が日本語よりたくさんあると感じるけれど、「やさぐれる」「いじける」にハマる言葉がないんだよなぁと思ったことがあり、そのことをふと思い出しました。
愛の練習を避けるために、上品にやさぐれていることってないだろうか。
「わたしは承認欲求が低い」という人がいるけれど、ほんと? いじけ方を上品にしておけばバレてないとでも思ってる? ねえねえねえ。
ねえねえねえねえねえ。
なーんてことを真正面から詰められたら、きついですよね。
大丈夫。アガサ・クリスティは真正面からは問い詰めてきません。
裏口からも来ません。空からも地下からも来ません。
そう。いつの間にか、もう室内にいます。(こわっ!)
魔術師なんじゃないだろうか。