早いもので12月に入りましたね。
「師走」だなんておもしろい暦の名前をつけるものだと思います。
忙しい僧侶が由来らしいですが、お坊さんが走っているのって、足音の静かな小走りくらいしか見たことがありません。いまは走るにしても車かバイクに乗って走るので、ピンときませんね。
わたしがヨガを教わったインド人の先生(インドではグルジ、と呼んだりする)も、サングラスをかけてバイクや車で走っている、そんな時代です。
それはさておき。
みなさんにとって、今年はどんな年でしたか。
わたしは今年、ひとつ挑戦して形にしたいことがあったのだけど途中までしか進められず、身(心)が入らなかったことがありました。
できなかったことの言い訳はいくらでも思いつくけど、この時までに形にする・外に出すと実行・遂行していくのに尻込みするときに自分のなかからどんな感情や言い訳が出てくるのか、観察すると発見がありました。
どうやらエネルギーの使い方よりも導き出し方を工夫するフェーズに入ったようだと、そんなことを感じた一年でした。
心身も社会も常に変化し続けるなか、いまの時代をどんなふうに生きて味わえるものだろうか。
becoming と being
これは繰り返し読んだ聖典のなかにあった教えを思い出すための、キーになるフレーズです。
今年はこの部分がとても心に響いて、そのたびに「あのbecoming と beingの話は、どこにあったけ」と、思い出すように読み返しました。
その一部分を紹介します。
一見変化するように見える「成ること(becoming)」が、変化することのない「在ること(being)」の中に落ち着いて確立されると、「成ること」は不幸から解放される。
(ヨーガ・ヴァーシシュタ 167より)
このbecoming と beingの教えは、最終章(第6章)にある291にも再登場します。
説明には前後関係があるのでそこだけ引用しても伝わる文章にはならないのですが、日常でいうなら「欲望も執着もなくやれているときは、不幸な気持ちから解放されている」ということ。
観念が「それってなんかこの先、役に立つんですか?」「それでいいことがあるんですか?」と訊いてくると、それが不幸な気分のはじまり。
わたしはこの観念をこれまでは向上心に紐づくものだと思っていたのだけど、もっと微細に見るべきものだったと、そういうことに意識が向いた年でした。
みなさんの心には、今年どんな進化がありましたか?