行動の動機について、じわじわ、ねっとり掘り下げる。いやだわー、と思いながら夢中で読んじゃった。
アガサ・クリスティーの小説で探偵が出てくるものは短距離走。探偵が出てこないものはフルマラソン。わたしはこのフルマラソン型のものに惹かれる。
この感じはなんだろうとずっと思ってきたのだけど、
扱っているのが
行動の動機
そのものなんですね。
行動は殺人じゃなくていい。ゆえに探偵もいらない。
この物語は、戦争があって選挙があって、やんごとなき出来事満載の人生のそれぞれの選択を描いているのだけど、憐憫を行動の動機にしない人物がふたり登場します。だからどうにも一筋縄じゃいかない。そこがとにかくおもしろい。
ひとりは「あるがまま」を体現するかのような聖なる存在感で、その「行動の動機の読めなさ」によって、振り回される人が出てくる。
もうひとりは憐憫以外の動機を憐憫でコーティングして行動することを意識的にやる、戦略的いい子ぶりっ子。そのわかりやすさが他者へ安心感を与え、周囲の人が動かされる。
どちらもそれぞれのやり方で、自分の人生を生きています。
この物語が異様に読みやすいのは、他人の行動や選択を品定めするだけの人の視点で描かれているから。しかも、その人をさらに客観的に見ている人がいる。
おまえROM専のくせして他人を型にはめようするなんて、しかもそれで憐憫に浸ろうだなんて、暇だな! みたいな強烈なツッコミを入れてくる。(セリフは上品だけど、趣旨としてはそんな感じ)
とにかく人物の配置が絶妙です。いろんな依存が描かれる。
女性たちが他人に影響されて生きることを余儀なくされる時代のなかでは、思索もユーモアも結局は逃避でしかなく、であれば、だとして、どう生きるか。考えることもやめてしまうのか。あなたなら、どうする? と問われている気がしました。
「ユーモアのない女性は現状に不満がないということ。だから彼女にユーモアがないところが好き」と言う男性が登場するのが、ものすごくおもしろくて。
この発言の前後と結末、すべてを踏まえてこのセリフが効いてくる。
人間の魅力って、なんだと思う? という話。
わかりやすくなければ伝わらない、だけど、わかりやすいことでは魂は動かない。
途中は何を読まされているのかわからないまま、でも先が気になってどんどん読んでしまうのだけど、最後まで読むと「え、え、え。ちょ、ちょっと待って。ちょっと待ってくださいよ。えーーーと、、、」と、すぐはじめに戻ってページをめくり直すことになる。
そしてオープニングの設定説明を完全に忘れるほど夢中になって読んでいたことに気づく。
すごいわー。いつかシェイクスピアの『オセロ』を読んだらまた読み直すことにしよう。