序盤から興味深い話題が続き、あれよあれよと数日で読んでしまいました。
神経科学者の著者は、映画化もされた小説『アリスのままで』の原作者。
この本を読んだ後に、さっそく映画も観ました。
この本はエッセイのように書かれた軽い文章の中に、神経科学・医療の歴史と現代の生きかたへの問いと応援が詰まっています。
これまで考えたことがなかったけど、そういうことだったのかと知る話がいくつかありました。
1953年は、ロボトミーなどの精神外科手術がまださかんに行われていた時代だ。
(1章 記憶の作り方入門 より)
欧米発の映画や小説にこの背景を踏まえたものが多い理由がわかりました。「時計じかけのオレンジ」「アルジャーノンに花束を」のような物語です。日本と違って、そもそも手術の実施数が多かったからなんですね。
さて。
この本のタイトルは「Remember」で、日本語訳が「記憶の科学」です。
Memory じゃないんですよね。読んだ後だと、「思い出せるメモリーの科学」のほうがしっくりくる内容です。(そのタイトルじゃ売れないから「記憶の科学」なのだろうけど)
ここから急にヨガの話になるのですが(ヨガ日記なので!)、わたしヨガを学び続けてしまう理由の一つに、古代インド人の「記憶」についての仕分けのすごさというのがあります。
なにがすごいって、記憶が来世に持ち越されちゃう前提なんですよね。
脳を開いて海馬だ脳梁だと言い出す前から、その先の先まで考えている。記憶への追求がしつこいのが特徴です。
分類を英語と対比させて無理やり日本語をわたしの感覚で当てはめてみると
<サンスクリット→英語→日本語>
- Samskara ≒ Impression = 印象記憶
- Smrti ≒ Memory = 思い出や、記録できそうな記憶
- Vasana ≒ Remain = 無意識に記憶に残っている記憶
日本語ではどれも「記憶」でざっくりしているけれど、ヨガ周辺の用語を見ていると、そもそも「人間の意識はどこまで浄化(聖化)できるか」というゲームのルールみたいなのがベースにあって、その上で言葉が共有されているので根本的に分類の考え方が違います。
リサ・ジェノヴァさんの提示する考えには、上記3のVasana を「愛」と訳すような、そういう博愛主義的なものがあって、ああ、これがアメリカっぽさかも。なんて思ったりして。
さらに興味深いのは、1と2を上手に組み合わせるのに「文脈」が力を発揮することについて言及されていること。
そして、記憶は意識的に作るものだという考え方が述べられる2章の「注意を払おう」は、もうこれ完全にヨガの本じゃないかと思う内容です。
反復は間違いなく記憶を強化してくれるが、その前にまずは、強化の対象となる記憶を作り出す必要がある。そして注意を払わないと、記憶は作られないのだ。
サンカルパよ。
注意を払うためには、意識的に努力することが必要だ。デフォルトの脳活動は、注意力のある方ではない。注意散漫な脳はすぐぼうっとし、白昼夢にふけり、オートパイロット機能をはたらかせ、バックグラウンドで絶えず同じことを続けている。このような状態では、新しい記憶を作るのは無理だ。何かを覚えておきたかったら、脳の電源を入れ、目を覚まし、意識的に覚醒して、注意を払わなければならない。
わたしは同じシークエンスを繰り返し続ける太陽礼拝で、この仕組みを再確認することがよくあります。
他人の目(を感じる意識)があるところで他人にガイドされながら練習をする効用って、実はここだよなと。
呼吸とともに動けるシークエンスもそうだけど、年末年始のような長い休暇を隔ててもPCを立ち上げれば手が自然にパスワードを打つあれね、あれも、マッスルメモリーなのだそう。
マッスルメモリーは歳をとっても揺らぐことはない。だがやり方はわかっていても、遂行する能力は以前のようにはいかなくなるかもしれない。歳をとれば筋力が弱まって柔軟性が失われ、反応時間が長くなり、視力や聴力も若い頃より劣ってくるだろう。習い覚えたやり方は忘れられない。ただ、年老いた体が覚えた動作の遂行に耐えられるかが問題なだけだ。
(12章 正常な老化現象 より)
ヨガは、自分の総合力がスローになっても続けられる。たくさんメモリーを刻んでおこう。
5章「脳内ウィキペディア」のラストにあったこの言葉も、すごくよいです。
知っている知識と記憶にある人生経験とが統合されてはじめて、人は賢くなるのだ。人間には知っていることの記憶に加え、起きたことの記憶もあるからである。
「ヨーガ・スートラ」の講義を受けたときに先生が話していたことを思い出しました。
聖典そのものに効力があるわけじゃなくて、人生経験とともにあるから効力を発揮するんだよとお話しされていました。
7章の「起きたことの記憶は間違っている」は、記憶を切ったり盛ったりすげ替えるのは基本機能として搭載された脆弱性と言い切る内容で、言った言わないの諍いは擦り合わせるか第三者を入れるしかないことに至極納得させられる内容です。
わたしは大人になってから、否認の病と言われるものを持った人と何年も住んでいた時期があります。なのでこれについては絶望の谷を一度二度は超えたつもりでいて、以来、人間同士のわかり合えなさって、ほとんどこれが原因じゃないの? と思っています。
同じ情報を目耳から得ても、途中で各自の "お得意の文脈" を挟むから、個人を尊重しようと思ったら簡単には擦り合わない。
それを擦り合う方向へ向かわせるのが愛なんだというのが著者の主張なのだと思います。この本を読んで映画「アリスのままで」も観て、そう思いました。
わたし個人の経験としては、社会的な間柄ではそこを知性で補うことが可能だと思っていて、ヨガや仏教ではそこで発揮されるのが修行によって得た慈悲だと説いている。そのように理解しています。
この本は人間関係と記憶について、深刻になりすぎずに、前向きに考えさせてくれる本です。人間のアイデンティティの捉え方って、アメリカのそれとわたしとでは少し違うんだなというのもわかって、アメリカ映画の感動のツボがわからない理由を説明されたような、そんなほのかな発見のある本でした。