このごろ、かつて読んでいまも覚えている本を再読しています。
引越しや断捨離で手放してしまった本も、見つけたら買い直しています。これまでいろいろ読んだなかでその世界・考え方・意識の展開はこの本でしか得られないと思うものを味わい直しています。
そんなこんなでの、モリエールです。
最初にこの本を手にしたのは、たまたまでした。タイトルと黄色い本の可愛らしい装丁が目について、開いてみました。字が大きくて薄いのを理由に読んだこの「人間ぎらい」をきっかけに、わたしはいきなりモリエールが大好きになりました。
以後、他の作品も夢中になって読みました。
そしてこの度の再読で、こんなに素晴らしい本だったかと、初回とは全く違う気持ちであらためて惚れなおしました。
かつての自分の感想を読んでみると、アルセストの性格を本気で怖がりながら、共感もしている。それが再読してみたら、なんだかジーンときました。アルセストが怖くなかった。
たぶん初回の読みでは、こういう性格の男性がリアルに感じて怖かったのだと思います。相手の女性が事実上ギャルのような年齢であることを認識できないほど、セリフの醸し出す貴族社交界の雰囲気に呑まれていました。よくわからないまま読んでいた。
それでも、ものすごくおもしろかった。性格喜劇って、こんなにおもしろいの!と、新しい世界でした。
うん。性格って、おもしろい。性格が肉袋を着て移動して五感を使って情報収集をして、それを料理して交わり合って、人間同士が化学反応を起こしている。それが人生だと思うと、ものすごくおもしろい。
再読した今回は、ギャルくらいの年齢の女性独特の残酷さのほうがリアルに感じられて、少し年上の同性の友人と交わすバトルも、おばさんのやりとりではない印象で読みました。初回は言葉が優雅なせいで、漠然とおばさんのイメージで読んでいました。
そして年数をおいて読んでみたら、なんと今回は泣けてくるような読後感でした。
この本の存在の意味が、自分の中でガラリと変わりました。この数年の間に、モリエールがこの物語を書いた年齢をわたしが越えたからでしょうか。
モリエールは51歳で亡くなっていて、この「人間ぎらい」は40代で猛烈に売れている頃に残された代表作のような傑作です。
中年期って、なんだか心の持ちようが中途半端ではあるのだけど、こういう物語が書ける年齢でもあるのだと思います。自分のよくない性質を認める力がついてきて、認めたくない気持ちも残っている。
モリエールはその分解・芸術への昇華を格別にうまくやれる人で、とんでもなくおもしろい。このラストは、どうにも泣けてしょうがありませんでした。
初回の読みでは狂ったストーカーにしか見えなかったアルセストに、このたび再び向き合いながら、これからの自分のことを考えました。
自分自身のなかにフィラントのような友人的人格を持たないと、社会のなかで身を滅ぼすだろうと思いました。身を滅ぼすなんていうと大げさに聞こえるかもしれないけれど、でも、それは二人の掛け合いを読めば、きっとあなたにもわかります。
訳者による解説では、以下のように触れられていました。
作家の「人」は、多くの場合その作となってあらわれる。モリエールの喜劇は、つまるところ、明るいモリエールと、暗いモリエールの交錯である。普通の意味でいう喜劇の概念は、彼の場合は当てはまらない。
世にいう良識とは、ベルクソンに従えば、「相手が変わればこちらも相手にふさわしく態度を変えて、相手と調子を合わすことを怠らぬ心のねばり」である。だれかに物を言いかける場合にしても、聴手にはそれぞれ、こちらの言うことを理解しうる限度があるはずなので、まずそれを見とおすだけの心のゆとり、そんなところに人間の良識がはたらくというのであるが、この作中にあらわれるフィラントは、まさしくそういう良識を身につけた人物として描かれている。
この本は時間をおいてもその存在を忘れられないのが気になっていたのですが、『ラ・ロシュフコー箴言集』の解説に登場していたり、森鴎外の『青年』の主人公のモノローグにアルセストと似たものを感じ、気になって読んでみたら別の意味で沁みました。
人間が皮肉的にならなければやっていられない精神状態は、悲劇にも喜劇にも振れる。
再読の味わい、ダシ、コク、濃厚さを存分に堪能しました。
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