なんとなく知ったつもりになっているけれども読んでいない本がたくさんあります。
この本などは、まさにその代表格。他にもフランケンシュタインやドラキュラなど、実は「怪物くん」でキャラクターを知っているだけだったりしてね。
『ジーキル博士とハイド氏』は、読んでびっくり。なんと、善と悪の対比ではありませんでした。
世界的ネタバレ推理小説の最後の章のあまりのすごさに驚きました。世間でよく例に使われる「まるでジキルとハイドのような〜」というのは、この本の前半までの話。
とても薄い本なのですが、それはこの物語自体が登場人物を最小限にして組み立てられているからで、このコンパクトさが、いま読むと新しい。
このシンプルに恐ろしい、とにかく「ハイド氏」だけがひたすら恐ろしい展開で最終章まで突き進んだあとの、トンネルを抜けたらそこは黒い雪の降る国。救いはないがなぜか実感を伴って読まされる重みと、トンネルの感じがうまい。
ジーキル博士が、自分の精神のありようによっては別の人間が現れていたはずと話すあたりから、この本は推理小説でも怪奇ミステリーでもなくなってくる。そもそも世界的にネタバレしているかのようなこの物語が何度も映画化されるのは、時代ごとに重なる事例が生まれ続けるからで、それが単純な善と悪の対比ではないから。
いま私たちが日常的に使っている慣用句のような「念には念を入れよ」(make assurance doubly sure)や、緊張して慎重になる時を表す「息を殺して」(with beated breath)といった表現がシェークスピアの作品から来ているなど、注釈も興味深く読みました。
注釈には先の展開をバラすものもあったりするのだけど、もうそのくらい、とにかくこの後をじっくり読みなはれ! という章立て。
よい人物として見なされるべき行為をしている自分に酔えない、そこになんらかの引っ掛かりがある人は、このジーキル博士の「設定」がかなり沁みると思います。
道徳的に正気であることができているのは、どうしてか。何に耐えることができているから、その状態でいられるのか。
わたしが他者を否定できないと思うときに立ち上げる思考のからくりは、この物語を通して語られることそのもの。「まるでジキルとハイド」という比喩は、実際にこの本の最終章を読んだら、内面的に確実に使いかたが変わります。
▼別の訳でも読んでみました。