友人が貸してくれました。この本はおもしろいと思う瞬間と、これをおもしろいと思う自分は大丈夫なのだろうかという瞬間が交互にやってきます。
そして最後の最後に、わたしが読みながら思っていたことが解説に書かれていて驚きました。末尾にある「私は中背で、のびやかな均整のとれた体をしている。色は浅黒いがしみのないかなりきれいな肌で…」という出だしから始まる『ラ・ロシュフコー自画像』という文章を読んで、ああこの人はあれだ、やっぱりアルセストみたいなフランス人なんだ…と思いながら読んでいたら
彼はモリエールの『孤客』(人間嫌い)のアルセストではなかった。彼の「人あたりのよさ」は、レ枢機卿さえも認めるところである。多くのサロンが紳士(ネオトム)ラ・ロシュフコーを歓迎した。(338ページ 解説 より)
ぎゃー。そのくらい、同じことを思う人が多いのでしょう。
アルセストというのはもう、めちゃくちゃおもしろい人です。中二病のまま大人になる人って昔からいたんだ…、しかも貴族! と衝撃を受けた人物です。
このラ・ロシュフコー箴言集(かくげんしゅう)は、まるでアルセストが書いているかのような文章ばかりなのに、本人はリア充だったなんてびっくり。しかも、こじれるだけの苦労を積んでいらっしゃる。
ラ・ロシュフコーはセネカをディスります。その理由・背景も解説にちゃんと書かれていました。
「私は読書を好む」(「自画像」)と言うラ・ロシュフコーが、戦いの合い間の休息や隠棲の日々を過ごしたヴェルトゥイユ城の豊かな蔵書には、もちろんキケロもセネカもあった。彼らの説く結構な美徳に対して、対人関係でさんざん苦汁を飲まされてきたラ・ロシュフコーが、懐疑と反発を抱いたであろうことは、想像に難くない。それに反してエピクロスのアタラクシアには共感できたであろうし、諸家が指摘するように、モンテーニュは彼の愛読する作家だった。
(343ページ 解説 より)
わたしはセネカをときどき千利休と重ねるのですが、それは暴君ネロとの関係が、まるで秀吉と関係が悪化して自害に追い込まれた展開を想起させるからなのだけど、なんというか、びっくりしたんですよね。セネカをディスれちゃうんだ! と。
冒頭の「書肆より読者へ」という文章の中に、こんな一文があります。(しょし と読みます)
人間の見せかけの美徳の中に見出される無数の欠点について語る著者の言い方は、神が格別の恩寵をもってそれからお護りくださっている方がたには、全く関係がないのであります。
書店の解説がこれって! うんうん、そうそう。神が格別の恩寵をもってそれからお護りくださっていると思えない人間にこそ、言葉の力が必要なのだ。そうなのだ。
以後、600以上の格言と20個ほどの考察文が収録されています。
いくつか、わたしが付箋を貼ったものを紹介します。
猜忌は、自分の掌中にあるか、もしくはそう信じている幸福を、まもり通そうとするだけだから、ある意味で正当で理にかなっている。それにひきかえ嫉みは、他人の幸福が我慢できないのだから一種の狂気である。(28)
もし気だてのよさが全然なかったらこれほど危険ではないだろうと思われる悪人がいる。(284)
信頼は才気以上に会話を潤す。(421)
頭がよくて馬鹿だ、ということは時どきあるが、分別があって馬鹿だ、ということは絶えてない。(456)
真の紳士(オネツト・ジヤン)は、誉めるに値するものを偏見なしに誉め、求めるに値するものを追求し、そして何事も鼻にかけない人であるべきだ。しかしそれには大いなる均衡と的確さが必要である。一般的によいものと、自分に合うものとを、識別することができた上で、根拠をもって、好きなものに自分を向かわせる自然な傾向に従うのでなければならない。
(考察13 にせものについて より)
この本一冊の中でどの格言を選ぶか、友人に片っ端からすすめて読ませて訊いてみたくなる。この本には、そんな特別なおもしろさがあります。
その人が人知れずどんな苦労をしてきて、どんなふうに人間不信の感情の芽に水を与えてきたか、そしてそれはさておき性善説ベースで日々を回している、その奥行きを共有できる。
大人の友情の絆が深まりそうな、とてもおもしろい本でした。