うちこのヨガ日記

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神曲 地獄篇 ダンテ 著 / 三浦逸雄(翻訳)

この物語を強引にまとめるなら「ウェルギリウス師匠と行く ドキドキ☆はじめての地獄旅(48時間・木曜出発)」というツアーにいつのまにか参加していたダンテがそこで見たものとは!!!(ジャジャン☆) 地獄に堕ちても意外と反省していない人々の姿であった。


 ── と、10秒尺のラジオCMにするならこんな感じ。読んでみたらほんとうにこんな感じだったんだもの! ほんとうよ~。どうなのキリスト教。もっとシリアスなのを想像していたのに。ダンテの神曲はこの地獄篇のほか煉獄篇(れんごく)、天国篇の三部作なのですが、詩の形になっているので原語で読めれば韻律も楽しめるようです。末尾の訳者あとがきに、以下のように書いてありました。

その韻律の美しさをうつすとなると、韻をもたぬ日本語でその美しさをうつす方法は、よしんば強弱または長短の符号をつけたとしても、いまのところ手がないのである。

なるほどそのように美しい韻律があるのだとして、美しい韻律の中で、地獄に堕ちた人々が反省していない! おもしろいなぁもう。そして言語は知的階級のラテン語ではなく女性や子どもの言葉トスカーナ語で書かれているそうです。好きな女性ベアトリーチェに捧げたくてという経緯らしいです。なんかかわいい…。でも内容は全然かわいくありません。


インド式でいう畜生界・人間界・天上界みたいな感じで三界を旅していく話なのですが、おしおきをされている人が歴史上の有名人ばかり。歴史上の人物の固有名詞が出てくるだけで、どんどん読まされてしまう。この書はイスラーム世界では禁書になっているのだけど、それはおしおきをされている人としてムハンマドとアリーが登場するから。『シャルリー・エブド』みたいなことになっています。読んでびっくり。

 

この本はあまりに地獄の様子を細かく描いたせいで、地獄の深さを3250マイルと計算する人が出てきたり、冥府を歩くダンテの時間の経過を計算する学者が居たりするそうです。解説にそうありました。

この物語は一人で地獄を歩くのではなくウェルギリウスという人が案内をしながら二人で進んでいきます。ダンテはカトリックの信者ですがウェルギリウスはキリスト誕生以前の人物。辺獄にいるけれども師匠。この本一冊を読むことでキリスト教の世界観、当時の社会に少し親しんでいくことができます。歴史の勉強にもなります。
ダンテの時代は星占いが盛んで医療費が高く、庶民は医者よりも占い師を頼っていたことなどが当時の物価とともに解説に書かれていました。註釈の中で、道をふみはずしたのは魂が眠っていたからだと中世では考えられていたなどのことが補足されています。


ウェルギリウスの言葉とダンテのモノローグのなかには、意外な流れから心の中をさぐられるような言葉が多いのだけど

あられもない顔をした真(まこと)については
ひとはできるだけ口をとじているがいい。
落度がなくても恥をかくものだから。
(第十六歌でのダンテの言葉より)

ここはいちばん「おおっ」と持っていかれる展開で、しかもこのあと江戸川乱歩みたいに突然読者に語りかけてきます。やられた~。


そしてひとつ、どうしてもスルーできない註釈もありました。

部下が隊長に、命令がわかったという合図には歯のあいだから舌を出し、隊長はそれに対して屁をならして答える。
(第二十一歌の註釈より)

中世の隊長のムーラバンダのコントロールがすごすぎて。


この本は地獄の様子を描いているのですが地獄でも斜に構えている人はいて、そのような人は地獄でも放置されています。なんというか、地獄でもこうなのであるという状況をぐいぐい書いていく。死んだ人のことを悪く言わないのが定着した日本の感覚ではかなり攻めてる書物に見えます。
日本でいうと鎌倉時代の書物です。

 

神曲 地獄篇 (角川ソフィア文庫)

神曲 地獄篇 (角川ソフィア文庫)

 

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