うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

不良少年とキリスト 坂口安吾 著

短いエッセイのような文章なのでパソコンでするすると読み終えてしまったのだけど、どうにも心に残るものが大きいテキストでした。
太宰治小説「斜陽」の文章に触れられているというので、ただの興味で読み始めました。太宰治が「如是我聞」という文章で使ったフツカヨイという言葉も登場します。

 

はじめはただの興味。しかも、どれどれ…くらいのかなり軽い興味。ところがこの短い文章を読み進めるうちに、坂口安吾という人物の視点や死生観、覚悟にぐいぐい惹きつけられました。

不良少年とキリスト

不良少年とキリスト

 

約半年前、わたしは別のきっかけで坂口安吾の視点に惹かれていました。
今年のはじめに新井薬師駅周辺を歩いてぶらっと入った喫茶店の店主さんと話したときに「このあたりは阿部定さんも働いていた花街のあった場所」と聞いて、3日間くらいわたしのなかで阿部定ブームが起こったことがありました。

そのときに、このテキストを読んでいたのでした。

 

内容は「あの事件の阿部定さんに会って話して来た」という話なのですが、よい意味で非妄想的で(=まともで)、女性を当たり前に人間として見ている。坂口安吾ってこんな人だったのか! と思ったのでした。

 

 

 

さて。それはそれとして。

「不良少年とキリスト」は太宰治芥川龍之介について書かれてます。坂口安吾の視点はやさしく鋭くおもしろく、欲が導く妄想エネルギーをけっして甘く見ません。そこをしゃんしゃんと流さず、がっつり掘り下げます。こんなに分解されたら当人もつらかろうということを、その人が亡くなった後でやさしく知的に綴っている。生きている間にそこまでわかったうえで親しくしていたのだと思うと、どんな包容力よ! 海か! と、その存在がどーんと大きく見えてきます。しかも文章の展開がすごくおもしろい。こんなに短くて鋭くて深くて笑える文章をわたしはこれまでに読んだことがありません。

 

そして、途中で持ち出されたフロイトの引用部分で目に小さな ☆ が出ます。
このパーンと出る ☆ は、ドリフのコントで金盥が上から落ちてくるあの瞬間に似た感じ。

フロイドに「誤謬の訂正」ということがある。我々が、つい言葉を言いまちがえたりすると、それを訂正する意味で、無意識のうちに類似のマチガイをやって、合理化しようとするものだ。

太宰治の魅力と弱点の同じ要素を抽出して提示する。あっさりきた。そして言われてみれば、あの魅力と魔力のしくみはまさに、これそのものなのです。

 

誤謬(ごびゅう)というのは日常では全く使う機会がない言葉ですが、認識について書かれた書物を読むときにはよく目にします。ヨガの勉強をする人にとっては、ヨーガ・スートラ1章6節で心の基本作用の5つに挙げられる、「基本的にあるもんだ」とされているものなので(viparyayaのことです)、知っている人もいるかもしれません。

 


そんな視点でこの「不良少年とキリスト」の坂口安吾の語り口を見ていると、どうにもこの作家のベースにある考えが気になってきます。がっちり死生観を取り扱うスタンスでありつつベースがキリスト的な方向ではないことだけが、妙にずしんと伝わってくる。その視点のありようは、まるで先日読んだ「ペスト」を書いたカミュのよう。

メサイア・コンプレックスと過剰なサービス精神は紙一重、というかほぼ一緒。庶民が神対応などといって有名人を持ち上げて食いつぶすことはこの時代から行われていて、そうなっていく同業者を見送る視点がとても冷静なのだけど、それだけじゃなくて、なんかやさしい。なにこの包容力! アルムの山みたい! おじいさーん!

 

 

── そんなこんなで、あまり見ないようにしているWikipediaをついつい見てしまいました。そうしたらそのなかに、「古今の哲学書や、サンスクリット語パーリ語チベット語など語学学習に熱中することで妄想を克服した」とありました。芥川龍之介が世を去った後から狂いそうになって、そこでこうして踏みとどまったそうです。

 

 


 パーン☆(金盥2回目)

 

 


日本語世界は言葉から役割を想像をすることを是とする、空気読みの世界。帰属意識や自尊心の地盤がゆるんだ瞬間に、思わぬ方向で沼にひきずり込まれてしまう。そしてこれが、やりがい搾取の構造を生みやすくする。

だからこそ、そうでない言語の学習がこの世間を生き抜く上では狂い止めに有効となる。こんなことを毎日思っているわたしに二つ目の金盥が落ちました。

 

坂口安吾はこのように語ります。

何を冥想していたか。不良少年の冥想と、哲学者の冥想と、どこに違いがあるのか。持って廻っているだけ、大人の方が、バカなテマがかゝっているだけじゃないか。
 芥川も、太宰も、不良少年の自殺であった。
 不良少年の中でも、特別、弱虫、泣き虫小僧であったのである。腕力じゃ、勝てない。理窟でも、勝てない。そこで、何か、ひきあいを出して、その権威によって、自己主張をする。芥川も、太宰も、キリストをひきあいに出した。弱虫の泣き虫小僧の不良少年の手である。

わたしは「人間失格 太宰治と3人の女たち」という映画を観たのをきっかけに、「如是我聞」「斜陽」を読んでこの「不良少年とキリスト」という文章にたどり着きました。
そして映画を観たときには、わたしの思っていることを三島由紀夫が語ってくれた! と思っていました。ただ三島由紀夫は別の方法でこの世を去りました。そこがずっとひっかかっていました。

 


そんなあれこれの思いを経て出会ったこの坂口安吾の指摘の語り口は、滝や雷に打たれるというのとは違う。あっさり軽く語る。落ちてきたのはめちゃくちゃ大きな金盥。金色でペコペコの、乾いた音のするあれ。

もう一回真上から落としてもらっていいですか。一番いい音がする角度で受けたいんで。はい、あの座布団の上に座るのですね。お、ここが真下ですね。わかりました! (よし。)首をまっすぐにして待ちます! もう一回お願いしまーす!

そんな気持ちで二度三度読みました。
端的にいうと、わたしは坂口安吾のセンスに惚れてしまったのです。前半の夫婦のやりとりとか、なんかおもしろい…。ドリフの「もしもシリーズ」みたい。

 

テレビもラジオもYoutubeも、同業者間のどうでもいいじゃれ合いや懐かしみをリスペクトがあるとかないとか言いながら雑な読解力しか持たない庶民が消費する、そんなつまらないものしかないのかな…と思っていたところに、突然ものすごい笑いに出会ってしまった。

このじゃれ合いは、かっこいい。