うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

如是我聞 太宰治 著

先日観た映画「人間失格 太宰治と3人の女たち」の終盤に「如是我聞」を書いている場面があり、気になって読みました。
これを読んでしまうと、惚れてしまいます。これは非常にまずい。内容はおおむね志賀直哉への悪口なのだけど、その悪口の根拠として語られる言葉がいちいち「ブルーハーツか!」という純粋さで、なんというかこれは非常にまずいのです。
半分くらいまで読んだあたりで、やばい完全にハートを射抜かれてる…と気づき、すぐに映画の中の「雑に飲みながら乱れて文壇をディスる太宰治(ビジュアルは小栗旬)」のイメージで打ち消しました。映画の中でもそうでしたが実際のところ「如是我聞」はお金をこしらえるために書いたもののようで、なかなかの毒舌エンターテインメントになっています。
このなかで、一瞬およよと思う箇所がありました。

料理は、おなかに一杯になればいいというものでは無いということは、先月も言ったように思うけれども、さらに、料理の本当のうれしさは、多量少量にあるのでは勿論なく、また、うまい、まずいにあるものでさえ無いのである。料理人の「心づくし」それが、うれしいのである。心のこもった料理、思い当るだろう。おいしいだろう。それだけでいいのである。宿酔を求める気持は、下等である。やめたほうがよい。時に、君のごひいきの作者らしいモームは、あれは少し宿酔させる作家で、ちょうど君の舌には手頃なのだろう。しかし、君のすぐ隣にいる太宰という作家のほうが、少くとも、あのおじいさんよりは粋なのだということくらいは、知っておいてもいいだろうネ。
(二 より)

なにちょっとおもしろい! と思っていたら、その少し前に書かれている以下の箇所の該当者(外国文学者)は、サマセット・モームの本を訳した中野好夫という人物を指すのだそう。

もう一人の外国文学者が、私の「父」という短篇を評して、(まことに面白く読めたが、翌朝になったら何も残らぬ)と言ったという。このひとの求めているものは、宿酔(ふつかよい)である。そのときに面白く読めたという、それが即ち幸福感である。その幸福感を、翌る朝まで持ちこたえなければたまらぬという貪婪、淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人であった。
(二 より)

モームの本はたしかに貪婪を満たす。あとあと残るからお得感がある。数年酔えるから二日酔いどころじゃない。鋭いな…。

 

以下は、人を見た目で判断してはいかんのだけど、おもしろすぎる語り。

強いということ、自信のあるということ、それは何も作家たるものの重要な条件ではないのだ。

 かつて私は、その作家の高等学校時代だかに、桜の幹のそばで、いやに構えている写真を見たことがあるが、何という嫌な学生だろうと思った。芸術家の弱さが、少しもそこになかった。ただ無神経に、構えているのである。薄化粧したスポーツマン。弱いものいじめ。エゴイスト。腕力は強そうである。年とってからの写真を見たら、何のことはない植木屋のおやじだ。腹掛丼がよく似合うだろう。
(四 より)

志賀直哉」で画像検索をしたら、そこはかとなくある共通性が「植木屋感」で驚きました。

 


同じく志賀直哉に対して、批判をするならこういう言い方をすればいいのにという代案を出しているのもおもしろい。しかもその代案が確実に「モテる男のものの言い方」で、こらあかん。あかんでこれは。

「こっちは太宰の年上だからね」という君の言葉は、年上だから悪口を言う権利があるというような意味に聞きとれるけれども、私の場合、それは逆で、「こっちが年上だからね」若いひとの悪口は遠慮したいのである。なおまた、その座談会の記事の中に、「どうも、評判のいいひとの悪口を言うことになって困るんだけど」という箇所があって、何という醜く卑しいひとだろうと思った。このひとは、案外、「評判」というものに敏感なのではあるまいか。それならば、こうでも言ったほうがいいだろう。「この頃評判がいいそうだから、苦言を呈して、みたいんだけど」少くともこのほうに愛情がある。彼の言葉は、ただ、ひねこびた虚勢だけで、何の愛情もない。
(四 より)

「、みたいんだけど」の句読点の打ち方! これ確実にモテる人の文章。やめれー。やめといたってくれえぇぇぇー。この一見無駄な句読点と冗長さこそ、モテの秘訣そのものじゃないか。そぎ落とさない男の人は、いつだってずるい。
おもしろいなぁもう。

 

如是我聞

如是我聞