うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

(再読)あなたは、なぜ、つながれないのか 高石宏輔 著

昨年の秋に「プロカウンセラーの共感の技術」という本を読みながらこの本のことを思い出し、この二冊を連続して読んだらどんなことを感じるだろうと思い、再読しました。
はじめて読んだのは2015年で、この本が出た年でした。


その後数年を経て再読したくなった理由は以下です。なかでも、一番上のものが理由としてはとても大きいです。

  • 他人の妄想力や認識の変換力に驚かなくなった
  • 小説をたくさん読むことで他人の認識のゆれの想像範囲が拡がった
  • ヨガクラスを通じていろんな人と出会い、一緒に練習をした

「あなたは、なぜ、つながれないのか」を5年前に初めて読んだときは、著者の身体感覚とその描写が新鮮でした。自分の経験と照合しながら、ここまで見えちゃうと大変だろうな…という気持ちで読んだのを記憶しています。

いま読むとこの本はボディ・ワークの個所をいったん切り離してまとめてもよかったのではないかと思うくらい、人間が自己に向き合う態度への観察が鋭いと感じます。他人の話を聞けるようになるためには、自分の心の醜い声を聞けるようにならなければならない。わたしはそれをゆっくり知っていったけれど、きっかけをくれたのはこの本でした。いま振り返ってみて、そう思います。

 自己嫌悪を味わうのが目的ではない。自分の人生を進ませるために、それまでの拙いコミュニケーションをとり続ける以外に、他にどんな良い方法があるのかを見つけたかった。
 それまでは諦めたり、他人のせいにしたりしていたが、そうして失敗した記憶の中に留まることで、ようやく自分自身のコミュニケーション自体を見直すようになった。
(第2章 僕はコミュニケーションが苦手だった / くり返し思い浮かぶ失敗の記憶 より)

 愚痴をどう聞いてあげようか、どう聞き流そうかと考えているうちはどうにもならない。自分の都合の良いように事実を脚色して「自分は悪くない」と愚痴を言っている人間が本当は何を考え、何を隠しているか。それが見えたときに、どうすればいいかが分かる。
(第2章 僕はコミュニケーションが苦手だった / 愚痴を言われ続ける より)

自分が失敗した記憶から逃げない訓練を積むと、目の前の人がポジティブなフレーズを用いながら脚色している背景も見えやすくなる。そして、それに対して「嘘つきめ」とも「偽善者め」とも思わなくなります。わたしはこのような過程を経て、いろんなことがスルーしやすくなりました。

 

スルーというのは心のなかでの話で、リアクションはします。リアクションはするけれど、このように考える。

 褒めてもらいたそうに何かを言ってきた人に対して、
「あぁそうなんだ」
 と落ち着いて答えられることは大切である。
(第8章 人の話を聴くということ / 褒めることの弊害 より)

 僕の身体にはまだたくさんの、自分では感じられていない暗い部分がある。その暗い部分には、自分ではまだ光を当てることができない。そこには、自分が失った感情や、記憶が眠っている。そこに光が当たった時に、ある記憶を思い出し、自分が感じないようにしていた感情に気がつくようになる。そのとき、他人のそれに似た感情も受け容れられるようになる。
(第8章 人の話を聴くということ / 他人を受け取る より)

直近の例でいうと、以前のわたしはグループで食事をした席に居た名前もよく覚えていない人が、あとで別の人に自分と親しい前提で話しているということを知ると、嫌な気持ちになっていました。今年の2月にもそんなことがありました。

いまは自分自身がここ数年で「さびしい」という感情にたくさん向き合った後なので、それをする人の気持ちがわかります。「さびしさ」と「理性のはたらかせ方」を切り分けて考えるようになりました。
この人はさびしい人という決めつけ思考をしてしまうと、それが自分に向いたときに自分の居場所がなくなってしまうから、それはしないようにします。この人の理性のはたらかせ方は面倒が起こるだろうから関わりを避けたり情報を出さないという、とてもシンプルな対処に変わりました。

この本の著者の書く「自分では感じられていない暗い部分」というのが、わたしにとってはその思考に至る過程であったと、いまこのコメントを書きながら思っています。

 

ひとりで考える時間をたくさん持って、見えてきたことはほかにもありました。

 そうやって他人との会話の中で自分に発生した感情や感覚を、自分の内面に潜りながらうまく言葉にする力を一人でいるときにつけることができる。人が目の前にいるときにはなかなか難しくても、一人でいるときにはいくらでも時間があるから、リラックスして内面を見つめることができる。
 これに慣れてくると、人と話しているときに何を話していいか分からなくなってしまうことが少なくなったり、またより深い自分の感情や感覚を表現できるようになったりする。
(第3章 コミュニケーションを見直すいくつかの方法について / 会話を思い出すことの意味 より)

わたしはここでブログを書いて公開する作業を通じて、内面に向き合うことを10年以上やってきました。それでも、各トピックのどこまでが事実でサービス精神で虚栄心かを見直す作業は、いまでも工数がかかる。言葉を選んでいる瞬間にどんどん侵食してくる脚色欲に自分で驚くことを何年も繰り返して筋力をつけないと、ついつい安易な自虐という手法に逃げてしまいます。

 

自虐というのはとくにスピードを求められる場や、せっかちな人にとって便利な文脈構成です。聞き手が「そんなことないよ」と言えば1つのラリーを経たことにできる。会話をしたことになる。この本は、自虐しながら「そんなことないよ」と言わせる相手を見極め選んでいる話者の心理をとことん分解します。初回の読書ではそれが強く印象に残りました。

今回の再読では「スピード」についての言及が気になりました。

 互いの感情や感覚の交歓ではなく、会話のスピードを競う場にばかりいたら、なかなか自分自身の感情や感覚を丁寧に扱うことはできない。じっくりと押し込められた感情を広げるまで待ってくれる人と出会うことや、そういう場に行くこと、そして、そういう人や場と出会うまでにも、自分の押し込められた感情を、自分一人で感じて広げていく誠実さを持っていることが自分の会話の質を向上させていくことになる。
(第3章 コミュニケーションを見直すいくつかの方法について / 押し込められた感情 より)

先日、友人がハマっているというYoutubeを見たのをきっかけに、その後も続々と複数名の動画を見て驚いたのですが、いまはトークの途中の空白を詰めて編集する人が多いです。相手の時間を奪わないことが、相手のことを考えていることになる。そうみなす風習がいつの間にかエスカレートしていったのでしょうか。それとも、相手に考える余地を与えないためでしょうか。

いずれにしても、ものすごく息苦しいエネルギーに満ちた世界に見えました。

 

そして以下の二か所は、いまの感覚で再読してみてとても沁みた個所です。

 誰でも、いろいろな人と接しながら生きている。悪い扱いもされれば、良い扱いもされている。体験はしつつも、そのことを忘れていたり、その意味をまだ見出せていなかったりする瞬間がたくさんある。しかし、あるとき、誰かとの出会いの中でふと別の記憶が蘇り、その記憶の意味、その記憶の中に自分と接してくれた相手の感覚を知る瞬間がある。そのときに、自分自身にとって大切なものを学ぶ。
(第2章 僕はコミュニケーションが苦手だった / ふと記憶が蘇るとき より)

 失敗したときほどトランスに入る必要がある。大人は失敗すると覚めて、自分のやっていることを「たかがこんなことに一生懸命になる必要はないのではないか」と客観視したり、内側に閉じ籠ってうまくできない言い訳を考えたりする。しかし、それでは一向に物事にうまく取り組めない。失敗したときに自分の感情を丁寧に感じて、失敗したという現実を認めると、失敗を糧にして前に進める。
(第6章 トランスを「生きるための技術」として考える / 失敗したときに感情に意識を向けてトランス状態に入る より)

失敗というのは忘れたいもので、繰り返したくもないもの。でも見直すのが怖いから、結局繰り返す。
今後は「自分は〇〇歳になってもこの失敗を繰り返した」というプレッシャーがのしかかってきて、そうなると「わたしは昔からこうだから」と、自分で自分のラベルを貼り続けるしかない展開になってしまいます。

 

軽やかだけどスかしてもいない。奇抜でもない。ゆったりと耐えている。

また会いたいと思う魅力的な人はこのバランスがよいか、他人に負担をかけない工夫を自分なりに考え続けているように見えます。しんどい時間をひとりで乗り越えてきたのでしょう。
2020年の現在、いろいろなことがオンラインになって、わたしは人と人のつながりについて再考する時間が増えています。その間に浮かぶさまざまな思考をキャッチしてくれるのは、やはりこの本でした。

 

文庫化されて絵が変わっています。Kindle版もあります。

愛するということ」というエーリッヒ・フロムの本を読んでよかったと思ったことのある人に、わたしはこの本もすばらしかったよとお伝えしたいです。