うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

まとめたい、紐づけたいと欲する心のやっかいさ

先日、友人と話していたら「こういうときにどう考えてるか聞きたいのだけど」と言われて、よくよく聞いてみるとこういうことでした。
雑な問いかけにイラッとして攻撃性に火がつきそうになる。もちろん抑制はするけれども、なかなかその火種が消えずにひきずってしまう。そういう状況への対処法についてでした。


わたしはこういうことについて、ヨーガの理論部分のサーンキヤの視点にヒントを得てから、以前よりも少しずつ冷静に考えられるようになりました。火種から精神的に距離を置く方法を自分なりに実験することをくりかえして筋トレをしている感じです。これをはじめたのは30代の後半からで、それまでにもいろいろなことにトライして心理学や自己啓発の本も読んできたのだけど、わたしにはたまたまこの心の整理方法がフィットしました。
これについては言語化するのがすごく難しいのだけど、6年前に当時の感覚で一度書いていて、今日書くのはその考えとベースは同じことです。

 


仮に「イラッ」をただの性質としてとらえたときに(トリグナがわかる人は、ラジャス・激性のことです)、その前後に何を使って何をしているかというと、記憶を使って感情の調理をしています。

  • またか、と過去の同じ事例を思い出して一般化しようとする
  • いるいる、こーゆー人、の「こーゆー」の記憶をひっぱりだして眺める
  • 「こーゆー」の範囲を広げて類型化する
  • 広げた範囲のなかでまた、いるいる、こーゆー人、の「こーゆー」の記憶をひっぱりだして眺める

 (これをくりかえす)


この紐づけのループが時間をどんどん消費していきます。
イラッの後にある、不機嫌を大きくする材料は自分の中のストックから出している。そこには実際の経験以外のことも含まれていて、なんやかやと記憶の倉庫から持ってくる。


この調理をくい止めるものにもいくつか種類があります。例えば天災。めちゃくちゃ大きな地震が来たら、火種を転がしている場合ではなくなります。こんなふうに、それは追いやられる。
これはわたしがよく使う方法ですが、めちゃくちゃ嬉しいことが起こったときも一瞬で追いやられます。これについてはあとで書きます。少し勉強している人のために補記しておくと、ヨーガ・スートラの第2章33節のプラティパクシャ・パーヴァナの実践を自分なりに模索しています。

 

さて。
この調理の材料である記憶を手元に置いておこうとするのは、重みを優先する性質(トリグナがわかる人は、これはタマス・鈍性)です。
なので「視覚聴覚など五感の反応」「イラッという感覚」「不機嫌の発動の元始」と感情の下ごしらえが進んだ後に、どこからが倉庫に貯めこんでいた材料による類型化や紐づけによる恨みのステージかを見る。これを日常的にやるのは面倒ですが有益です。わたしはヨーガを「むやみに他人を恨まないための技術」と思っています。
この分類のスクワットはそれなりにえぐい回数こなさないといけないので、心の筋肉痛が起こります。

 

これは個人の深いところで起こる筋肉痛なので、お風呂でほぐして寝とけばいいというか、黙っておけばいいこと。この筋肉痛を他人と共有してつらさを分かちあいたいという欲を起こすと、これはこれで別の練習が必要になります。心の深いところで起こることを他人と共有したいとなればコミュニケーションの技術を磨く必要がある。
それをショートカットしようとすると「うまくいえないけど、相手して!」をやるために話しかけやすそうな人を物色することになります。これはこれでひとつのサバイバル手法かもしれないけれど、社会の中でやっていくには得策と思えません。この視点において、ペットを飼うのは賢い手かもしれません。
人間同士の場合、プロにいきなり「テニスの練習の相手して!」と言わないのと同じで、ひとりで素振り・壁打ちからはじめたほうがよいように思います。わたしは内観したプロセスを言語化することを、この素振りや壁打ちに相当するものとして行っています。

 

とはいえ、とはいえです。
友人や信頼している人がなにかのきっかけでコンディションを崩すこともあります。全体性を見るという視点も切り落とせません。根本的によくなろうとしているのか、その途中経過として一時的に安心したいだけなのか、責任転嫁先を探して正当化しようとしているのか。コンディションのグラデーションも様々です。

 

 

 

冒頭の問いにぐわーっと話を戻します。
「雑な問いかけにイラッとしてしまうとき」についてどうするかという友人からの問いに、わたしは以下のように話しました。


よくやるのは受験に受かったときとか、マラソンをまじめに完走したときとか、恋愛関係がぐわっと進んだときの印象を使って、そこへ意識をワープさせちゃう。
そうすると、許すも許さないもなにも「雑魚が戯れにやってきたわい。ふぉっふぉっふぉっ(扇パタパタ)」という殿様みたいな状態になる。(実際に殿様になったことはないので、雑魚のフレーズはイメージです)
もしも自分が超余裕・多幸感に満ち満ちた状態であれば、これ以上感情を調理したりしないだろう、というふうにシミュレーションをして、いったんそっちに寄せる。


逆の方法もあります。わたしはかつて、ここで他人に頭を下げてお願いをして助けを得なければ死んでいたであろう、という「ひとり登山」の経験があります。しかも頭を下げる機会はその前にもあって、それを一度つまらないプライドで逃した後のセカンドチャンス。
自尊心や好悪の印象を間違って行使すると、あとで恥ずかしいことにも繋がっていく。自分の「コンディション」を見なくてはいけないと思った経験です。
経験から学ぶというのは「Aを成し遂げるにはBがあるとよい」みたいなノウハウを蓄積すること以前に、自分の「心のコンディション」を見る癖をつけることもワンセットかなと思っています。