うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ラメッシ・バルセカールとシヴァ・サンヒター

わたしは本を読みながら、ここで述べられていることは別の本のあのことと似ているな…と思うことがあって、手元に本がある場合は確認をします。
以下の本を読んでいるときに、これはシヴァ・サンヒターの2章49節・51節にあることと同じことを言っているようだなぁと思いました。

 

シヴァ・サンヒターの2章49節・51節それぞれの節は、以下の内容です。
引用元:日本語「続・ヨーガ根本教典」 英語・ローマナイズの元「Shiva Samhita (English Edition)

 

2章49節

直観の仕手(主観)が直観された時には、直観の仕手に存在する迷妄は消え去るであろう。「彼(梵)は実在せず」と考える限り輪廻の世界に関する迷妄は消え去らない。

When the Maker of it is realized, the delision of this world manfested by Him is destoryed. As long as one think, "There is not Brahma" so long the delusion of the world is not removed.


sAkzAtkAribhrame sAkzAtsAkzAtkAriNi nAzayet |
so hi nAstIni saMsAre bhramo naiva nivartate ||

 


2章51節

汚れなきもの(梵)に対して直観の智が生じない限り、多元の存在はすべて見えるのである。

As long as the knowledge does not arise about the Creator - the NiraJjana (the Ultimate Self without any fault or taint), all beings are seen dofferent and various in number.

 

yAvannotpadhyate jJAnam sAkzAtkAre niraJjane |
tAvatsarvANi bhUtAni dRszyante vividhAni ca ||

 


わたしはラメッシ・バルセカール氏の説明のなかの以下に格別にうなりました。この少ない文字数で説明できちゃうんだ…と、その要約力にうなりました。
(以下214ページより ※色の字のところは本文で強調点が付いています)

覚えておこうとするあらゆる努力の中に、エゴが存在します。
理解覚えておくことをひき起こすときだけ、エゴは不在です。

わたしには、この二行がシヴァ・サンヒター2章51節の前半をかみ砕いて現代版にしてくれているように見えます。
直観と言っても、日常の「なんとなく」のほとんどは、どこかで見た「これ、こういうの、なんかええやん」というイメージを借用している。ビビッときただの迷わずこれだと思ったと言ったって、視覚の印象に引っ張られていることがないといえるケースがあるだろうか。あやしいものだ。


わたしは「ふと関連して想起する」ものにとても興味があります。覚えていたことが理解の芽生えを証明してくる、そういう瞬間にわくわくします。
だから読書は楽しいし、同じ本を読んだ人との対話も楽しいのよね。

 

 

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