わたしはここ2年くらい、サーンキヤの主張に軸足を置いてヨーガを含めたインド哲学を学ぶという勉強法をとっています。
そのスタンスで昨年は「ヴェーダーンタ・サーラ」、今年は「チャラカ・サンヒター」に触れてみて、たいへん刺戟を受けました。今年はもう他派を深追いしない予定なので、いったんその感動をまとめてしまいます。
「チャラカ・サンヒター」は技術書でありながら、「学びのあり方」「理解とは」ということへの言及が多く、マヌ法典では言い切りで終わるものも詳細に語られています。まえに中国の漢訳仏教世界で起こった「文と質の論争」を紹介しましたが、今日はインド内での「伝承の理解」に関する言及を紹介します。
<「チャラカ・サンヒター」第30章16節〜19節より>(数字は節番号)
ところでアーユルヴェーダを(真に)知る人々は、(アーユルヴェーダの)体系と各巻と各章と各主題を文章表現と文意と細部のそれぞれから語ることのできる人であると考えられている。そこで体系などがどうして、文章表現と文意と細部の意味から語られるのかというと(16)、
- それに答えて(次のように)言われる。聖仙によって語られた体系全体がそっくりそのまま聖典に基づいて語られた場合、「文章表現から」と言われる(17)。
- 自分の知恵によって書かれている内容の真理を正しく把握したあと、弟子たちの三種類の理解能力に応じた詳説あるいは略説、さらに主張・理由・喩例・適用・結論(からなる五支作法)によって語られた場合、「文章から」と言われる(18)。
- 体系に規定されている内容が難解な場合、それをもう一度内容から説明する場合、「細部の意味から」と言われる(19)。
端的な質疑応答は成立しようにもできない深遠な世界。
上記の「五支作法」というのはこちら。
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<第16章注釈より>
ニヤーヤ学派に代表されるインド古典論理学での論証式・五つの支分 論証式とは、提案(主張)を、理由(根拠)、喩例、適用、結論によって立証することである。(中略)たとえば
- 「人間(プルシャ)は永遠である」というのは提案(pratijna)である。
- 「つくられたものではないから」というのが理由(hetu)である。
- 「あたかも虚空のように」は喩例(drstana)であり、
- 「あたかもつくられたものではない虚空が永遠であるように、そのように人間は(永遠である)」というのが適用(upanaya)である。
- 「従って(人間は)永遠である」というのが結論である。
ニヤーヤ派の学説は「バラモン教典」に収録されている「論証学入門」を読んだことがあるのですが、「煙がある」という状況に対し経験から「そこに火がある」と推論していくだりなどは、なんというか、不思議な感動を覚えました。「火のないところに煙は立たない」と、教訓みたいにあっさり意識に入れちゃうまえに、しつこい分解を経ている。「当たり前」とする前に、大真面目に整理し、定義している。そりゃITに強くもなるよ。
ヨガについて質問をたまに受けますが、ことに伝統・伝承に関する分野では「○○は○○ですか?」「○○は○○じゃないんですか?」「○○はインドの伝統的なものですか?」というファジィなフレースだけもらっても、実は回答しずらいことも。質問する側の「文章表現と文意と細部の背景・質問のきっかけ」を理解し、わたしが学んだもののなかから、「文章表現と文意と細部」も含めてそれにマッチする回答を出さないといけないな、と思うのですが(なければ出さない)、質問する側の要件を詳細化しようとした時点で形式上「詰めてる」ような体裁になってしまうので、日本的なコミュニケーションでは無理かも。と、少しあきらめる。
それはそれで心苦しいというか頭苦しいところがあります。
なんてことも、すでにインドの学問の世界ではお見通し。ヨーガ・スートラと同時代にまとめられている。
おもしろい!
▼「チャラカ・サンヒター」について、いくつか書きました