うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

日没  桐野夏生 著

メンタルの調子がよくない時に「この人を信じても大丈夫だろうか」と探るときの ”信じる” と、安定しているときの ”信じる” は、まったく意味が違うと言っていいくらい違う。この振れ幅をどうしたものか。後者には主体性があるけれど、前者では半分消えているというくらいに違う。


この物語は、主人公が厳しい状況に追い込まれていく中で、目にする人を「信じても大丈夫だろうか」と自問自答しながら、それを怒りとして表明するときの損得の算段と抑制のアンバランスさがとても人間らしくて引き込まれます。海外旅行で詐欺に遭うときの交渉と似ていて引き込まれます。

 

信用するかどうかはさておき、ひとまず下手(したて)に出ておくもの、という判断はごくごく日常的なものだけど、人間に対する洞察力がはたらく人ほど実行し続けるのはむずかしいということがよくわかる。
近ごろよく目にする「気がつきすぎる」とか「非常に感受性が強く敏感な気質をもった人(HSP)」と表現されるような性質を手放さないまま新たな環境で立ち回ることのむずかしさや、心の奥でなんとか相手を内面的に見下せる材料を探そうとして失敗する恥ずかしいパターンを可視化したようなエピソードも多く、主人公のモノローグを通した人物の描き方がなかなか残酷です。


これはわたしの考えですが、いまの時代は義憤ベースでコミュニケーションを回していくほうが、どうやらエコであることは残念ながら間違いがないように思います。2019年までは、そこまで強くそう思っていなかったけれど、自分の理想はさておき、そう思います。
それを認めたうえで、爪を研ぐ。この作品でこの著者が行なっていることは、そういうことのように見えました。


複雑な私憤を目に見える形に昇華させた表現など、めんどくさくて読んでいられないのだから、わたしも参加しやすいテンプレートにのせた義憤でお願いしますと、表現の世界でそういうことが求められていく。
文学や映画や演劇はそうであってはならないという線引きを主人公は持っているけれど、わたしはニュースでもいつも嫌だなと感じます。ニュースの最後に余計な感情が書かれていると、ブログかSNSでやってくれと思うことがたまにあるから。

 


もう一度この小説の世界に話を戻します。まあとにかく、のめり込むように読みました。
状況が厳しすぎて、主人公が目の前で起こることをいちいち検分する体力を失っていくあたりから、わたしも一緒に狂い始めている気がした。狂うって、何? え? いまもうこの状態!?!?   という感じでクラクラする。
後半は自分が冷静に読めているのかまったく自信が持てないほどの没入感で、それまでの数日は毎日昼休みに読むのを楽しみにしていたくらいだったのに、最後の2割はいっきに夜に読んでしまいました。
読みながら明るい未来は想像できなかったけれど、それはあくまで小説の中の話で、この小説を読んでいる現実世界のわたしは、これを読めている明るい世界にいる。
『夜と霧』の世界に少しだけ足を踏み入れて戻ってきたような感覚になりました。

 

 

━━ と、ここまでは優等生的ラッピングを施した、毒抜き処理済みのわたしの感想です。
これは二度目に読み始めたら気づいたことなのだけど、この主人公は本当に40代前半なのか? と思うところがいくつかあって、思考がやばいと認定されやすい(近ごろはそれを「アップデートが必要」と表現する)判断をしているように見えます。
自分がいまの社会の仕組みの中で大切に扱われない理由を棚上げしたまま、それを時代の変化ということにする思考がいくつか事前に示されていて、それは特に編集者とのやり取りの中に見えます。


これは、限られたノリの世界でそれなりにやれてしまうと、あとがすごく大変ということを実感させるもので、とても恐ろしく感じました。いまの時代の変化はインフラやテクノロジーの変化よりも、コミュニケーションの変化が大きいから。
この小説は「正気」の基準が周囲と違うことになってしまう恐ろしさを突きつけてくるのだけど、主人公は自分の「正気」を裏付ける材料を外部から得ているので、そもそも読み手も主人公を信用することができません。
「この人はなんだか事情通だけど、話していることはどれも一次情報ではない」(=妄想家)という人格が認定されていく過程は、なんかこういう瞬間って発し手・聞き手どちらの立場でもよくあること。

 

さて。
わたしは正気でいるためには、自分の「寂しい」という感情をごまかさないことがとても大切だと、ここ10年くらいで思い知らされています。

そんなこともあり、この小説の以下の描写は拷問のようでした。

誰かが近くにいて、普段通りの生活をしていると感じるだけで、少し気が楽になるのは不思議だった。その誰かは、とても邪悪だというのに。
(第3章 混乱 より)

自分の調子がいいときは「ねえその後者の一行、必要?」というツッコミの気持ちが起こり、そうでないときは共感する。そして調子がいいときのツッコミの気持ちは実は攻撃性で、「寂しい」は不健康の元なんですよね。
なんの条件付けもなしに、”誰かが近くにいると、少し気が楽になる” ということが子どもの頃は当たり前に痛感できていたのに。こういうことを、大人になると転職や旅のアウェイ感で思い出したりするけれど、ここしばらくはそういう機会を得ていませんでした。
そんなことを思い出すきっかけが不意にやってきて、生意気さと思考と人権の境界に迷う読書時間でもありました。