あこがれのベアトリーチェといっしょに歩けるようになってしまったことによって、地獄篇・煉獄篇よりもダンテがふわっとしちゃってキレがない。星占いに沿ったすごろくみたいに先へ進んでいく。このふわっと感、見覚えがあるな…。天国篇のダンテは、まるで山吹みどり先生と結婚できてしまってからの則巻千兵衛のよう。本人の中にあるエグみが薄れてしまって、なんだかつまらない。
という印象はさておき、読んでみたらとても大きな発見があった。日本でもよく引用されるキリスト教世界のあのイメージは、実のところ自分としてはさっぱりピンときていないなという要素がありありと見えた描写がありました。それはファミリー・ヒューマン・ドラマで「死んだ人はお星様になるんだよ」と子供に言うような、あの感じのこと。(人間の魂は星から出て、肉体にやどり、死とともに星に帰るという説)
わたしは星を見てそんなことを思ったことはないし、身近な人が亡くなるとしばらくして想像するイメージは「三途の川とか渡ったりするのだろうか。船で渡るのかな」という景色で、思いっきり西遊記だ。なので、かわいらしい子役が出てくるようなドラマで繰り広げられる「お星様になるんだよ」は、んなことあるかいと心根で感じている。
ほんとにみんな、こんなことイメージできてるんだろうか…とずっと謎だったのだけど、そもそもキリスト教世界のイメージなのだと思ったら妙に納得した。ディズニーランドで働いている人の笑顔を見て、「大変だなぁ。表情筋、凝るんだろうなー。わたしもがんばろ…」と思う人間にピンとこないわけなのだ。
そしてここでも、たまにべろーんと出してくるベアトリーチェの思想の現実味がすごい。脳内映像が美輪さんになっていく。
意志は、ひとびとのうちにきれいな花をつけさせるが、
降りつづく雨が
ほんとうの李(すもも)を腐れた果実に変えています。
信頼と純真さはただ幼児のなかにしか見られません。
それからは ひげが頬をおおう前に、
どちらかがさきに逃げてしまうのです。
片言をいうあいだはまだしも 断食するひとも、
そのあとに舌がまわるようになると
どんな月でも 片端しから むさぼり食べるのです。
舌のまわらぬあいだは、母親をしたって いうことも聞くが、
弁が立つようになると、
母親には墓場で会いたいなどと想うことになるのです。
こうして 朝をもたらし夕べをのこすもの(太陽)の
うつくしい娘の初姿にふれると、
その肌が白くなったり黒くなったりするのが人間です。
そなたが別におどろくにはあたりません。
(第二十七歌のベアトリーチェの説法より)
「なんと天国にも微妙な勘違いを続けている人はいるけど、いるのが現実なのだからほっときましょ。なくならないんだから。自由にしょーもなくさせといたったらよいのです。それはさておきここは天国です」というスタンスがいい。
煉獄篇よりもバージョンアップしたベアトリーチェがすごくいい!
ベアトリーチェは第ニ歌で「人の世」のことを
感じる力が鍵をはずせないところ
と言っていて、感覚の奴隷感覚の自覚がエレガントで素敵…。
第七歌での以下の先回りした説明の時点で、わたしも半分ベアトリーチェ教に入信しそうな勢いでした。
あたくしの判断は夢あやまちはないのですが、
そなたを思いまどわしているのは、
正義の復讐がどうして正しく罰せられるかということでございましょう。
ですから、あたくしがそなたのその疑い(のふし)をといてさしあげましょう。
ファビュラス!
ダンテがアダムの魂に語らせている、第二十六歌もおもしろい。
人間の好みというのは、
天の影響で新しくなるものだから、
理性から生ずるもので永劫につづくものなどあるはずはない。
言ったね! しかもこの人が言ったことにするとおもしろいのがずるい。
第十七歌で先祖の霊の語る以下の教えも、すごくいいんですよね…。
世の中では 年が二回か三回めぐるあとまで、
罠がそっと仕掛けられることがある。
だからといって、お前は隣人を妬むではないぞ。
お前の生命は、それらの不実な刑罰よりも
はるかに遠い未来に生きのびるはずだからだ
こういう身の引き締めかた、だいじ。だいじよ…。
「神曲」は今の時代なら絶対にありえない二次創作みたいな書物なのだけど、自分は双子座の星に生まれているから歌の才があるのだとダンテ自らが信じて書いている。天国篇で占星術の色がかなり濃くなっていく。だって星のお告げだし!という感じで最後は突き進む。ダンテの葛藤の修行記録になっている。
キリスト教の世界観に少し近づけるかな…と思って読んでみた「神曲」でしたが、想像以上に設定そのものからしておもしろい書物でした。