うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

エンリケ・バリオスの魔法の学校 ホワイトマジック特別集中講座 エンリケ・バリオス著 さいとうひろみ(翻訳)

同作家の「アミ小さな宇宙人」からの三部作を読み終えたので、この本を読んでみました。
アミのシリーズはキリスト教聖典にある教えを執着と愛の混同解釈で曲げないように説いていくような物語でしたが、この「魔法の学校」はそれを練習メソッド化し、精神修行の冒険の主人公に自分がなった感覚で読み進めるもの。この本を読んだら、自分がなぜ30代前半でヨガに惹かれてどっぷりハマったかがよくわかりました。
その頃わたしは、言葉を白魔術にも黒魔術にも使えることが数字で見える仕事をしていました。それがコントロールできれば評価をされる。自分の経験と感覚で、数字は上げようと思えばまだまだ上げられる。でもそれは黒魔術的なやり方になることもわかっている。そんななかで、そこから抜け出すためのものを必要としていました。
広告の規約に必ず出てくるNG事項にある文字列「射幸心」についての向き合い方をどうすれば適正化できるか。わたしはこの本を大人向けの解釈として、そんなふうに読みました。

この著者の作品の中で説かれてる神は「イーシュヴァラ」としてヨーガの教えの中で説かれる存在とかなり近く感じられるもの。ヨガについて勉強をした人のなかには、この本を夢中になって読み進める人も多いのではないかと思います。"みずがめ座の時代" や "すべては原因と結果の法則" など、ヨガやスピリチュアルな分野でよく目にするフレーズも出てきます。


表紙の雰囲気はハリーポッターのようで、物語の進みかたはダンテの神曲のよう。ほんとうに入学したみたいな気分で読める構成は少年少女向けにも見えますが、この本がいままさに学校でいじめられている少年少女にとってよいものかどうかはわかりません。
「自由意思」を説こうとすると、ときに他人を馬鹿にしたいという感情に対して共鳴を狙っているかのような文脈が発生してしまう。それをうまく回避できているかと言うと、あまりできていないように思うから。


「相手が子供だと思いなさい」という教えは思いっきり大人向けの前提。もし自分がまだ少女の頃に読んだら、繊細さを極めてしまう方向へ行っていたかもしれない。この本を読んだ直後に超能力の番組でスプーン曲げを見ていたら……。
心の中で常に周囲を小バカにする人間性が固定化していただろうと思います。

 

これまでに読んできたヨーガや仏教の教えと重なる、過去の振り返りのきっかけになる要素もたくさんありました。

"敵" はあなたの頭の中に潜んでいるのであって、外から攻撃してくるわけじゃない。
(P84 より)

これは「第二章 あなたはあなたの個人的な世界の神である! /六番目の回廊」に出てくる教えですが、バガヴァッド・ギーターの第6章5節のようでありながら、「頭の中」と言っているところが明確で、脳の話をしています。一瞬引っかかる感じがいい。

 

そのためには、神聖で不可侵な誓いを立てる必要があります。
(P109 より)

これは「第三章 ホワイトブラザーフットへの誓い /二番目の扉」に出てくる教えですが、ヨガニードラで唱えるサンカルパに通じるものがあります。
(参考:サンカルパの練習。他者の評価が介在しない目標文章をつくれるか


何度か読み返すことになるフレーズもありました。

十字架にかけられていたいと思う人を、そこから下ろしてあげるのが義務だと思ってはいけない。
(P190 より)

これは「第四章 七つの愛のレッスン /レッスン4」に出てくる教えですが、アミシリーズでもときどき出てくる考え方です。

最後の「義務」を「善」に置き換えて読んだらどうなのか、苦行をしたくてしているのに…という読みかたをしたらどうか、助けてもらえるのがデフォルトになったら本人の自由意思はどこにある?ということになるか、などなど、いくつかの視点ををもってしても、わたしはまだなにかを習熟できていない。「してあげる」と「助ける」をイコールにしてよいと考える時点で理解できていない。
こういう思い込みのような盲点をたくさん突かれる本でした。