うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

(再読)チベットの聖者ミラレパ エヴァ・ヴァン・ダム 著/中沢新一 訳・解説

9年前に読んだ本「チベットの聖者ミラレパ」を再読しました。当時はあまり仏教とヨーガの境界がよくわからなまま読んでいました。
11世紀~13世紀に残されたといわれるインドのハタ・ヨーガ教典の人物はどうにも実像がつかめない。でもチベットには伝説のヨガ行者の話がある。9年前はそんな流れで修行の物語に惹かれていました。が、今日紹介するこの本もその少し前に観た映画もなかなかのパワハラ物語で、そのインパクトにすっかり印象がもっていかれていました。当時は暗示や象徴化(symbolization)の意味も修行の種類もわからず、神通力を得ることに漠然とした希望を持っていました。そんなことでも想像しないと、いろいろ大変な日々だったのです。

あわせて、オウム真理教の人たちがチベット仏教のヨーガを下敷きにしていたことを知ってため、ヨガはするけれどそういう感じにならないように…という警戒心のようなものから関心が移っていったという経緯もあります。「終末論」や「起こることのすべてには理由がある」みたいなフレーズを「われわれ」の都合で利用するとこうなる、という事例をリアルタイムでテレビで見ていた世代です。


そんなわたしがミラレパの本を読みあさっていた頃から訳10年。オウム真理教の事件は昨年死刑が執行されました。その間にインターネットが普及し、インドやチベットから出版される電子書籍でこれまで読めなかった教典にも触れられるようになりました。シヴァ信仰のヨーガにまつわる教典も、佐保田先生が訳された「シヴァ・サンヒター」だけでなくゴーラクシャ・ナータの書物(ナータ派の教典)も手にすることができる時代になりました。伝説の背景を理解するための資料に一般人が近づきやすくなりました。
1978年に初版が出版された「続・ヨーガ根本教典」のはしがきで、佐保田先生はこんなことを書かれています。

 私の予測どおり、ここ数年来ヨーガは日本でも相当な急速度で世間の注目を引き始めました。この風潮は日本の社会にとって喜ぶべきことではありますが、同時に、私がかねがね恐れていた事態が実現しかねない前兆も見え始めております。

この数行前に「ヨーガが日本の社会に害毒を流したりするのではないか」と予測されています。


わたしはたまたまオカルト・ブームの少し後の世代です。もしあと15年早く生まれていたら、将来に悩む頃にそんな情報に触れていたら、がっつり入信していたのでないか。そんな自分への疑いを持っています。なので自分がどういうときに情報を主観で変換して解釈しようとするかを知っておきたい。ヨーガのルーツを知りたくて、「ゴーラクシャ・サンヒター」「ゴーラクシャ・シャタカン」「シッダシッダーンタパッダティ(S.S.P.D)」を読みました。
すると、読んでみると…。これがどうにも包括的。S.S.P.Dにはオウム真理教シャクティ・パットといわれたことも書かれていたけれど、自分たちの宗派を批判する立場の人やほかの宗派の信仰にも解説がありつつ、ナータ派の思想・グルのあり方を示すという構成になっていました。想像と違って論文ぽかった。


そんな確認を経て、9年後にあらためて読んでみたミラレパの物語はどう見えたか。いまならこれは「カルマ」の法則の話で、呪いの連鎖の止めかたの話なのだと解釈できます。だけど、それにしてもなんでそんなにおどろおどろしいテイストで物語化するの!? こんなのを見せられたら、自分の人生が順調でないのは世間のせいだと思いたい人や自分の人生を親や境遇のせいにしたい人が食いつくじゃないか。なんでこんなふうに伝説化するの? とも思います。それでもよくよく冷静に読むと、ミラレパのもともとの性質というか性根が腐っている。自分で考えない人なのです。身近な人に対する被害者意識で恨みの感情を燃やし "九代まで呪いたい" と考える母親から呪い代行を望まれ、その訓練に没頭する。ここをあっさり流しすぎていた。


そしてもうひとつ、9年前にはいまのように感じなかったことがありました。この本の文末に収められている中沢新一さんの以下の解釈に、いまのわたしは「そこ美化しちゃう!?」という感想を抱きます。

 マルパは、徹底してサディスティックな試練を、ミラにあたえた。そして、ミラは信じられないほどの帰依と献身によって、ばかばかしいほど不条理なこれらの試練に、マゾヒスティックに耐えたのである。この過程で、マルパの妻の賢いタクメマが、重要な働きをしている。彼女は、ミラに真実の同情をしめして、ときに無慈悲な夫を責めたり、だましたりして、かわいそうな若者を助けようとしたのだ。彼女の存在によって、試練の過程の不自然さに、ナチュラルな救いがもたらされている。私はここに、チベット人の非体育会的な、じつにバランスのとれた精神のあり方を発見するのである。

マルパ(師)の妻タクメマがミラ(弟子)がちゃんと仕事をしたことを証明する役を買って出たときに、夫婦にこんな会話があります。


「この人にとってはどうでもいいことでしょうが、私が証人になりますわ。」
「証人もいいが、それだけで家に戻ることだ。そこがおまえの持ち場だろう。他人の仕事にでしゃばるのはよくないぞ。」


この会話の「この人」がミラをさしているのだとしたら(わたしにはそう読める。夫を指すなら「あなた」と言うだろうから)、マルパは見抜いているんですよね…。証人になることをタクメマに自分で事前に依頼しておきながら、すっとぼけて傍にいるミラレパの心のありようを。それを見抜いたうえでマルパはタクメマに「他人の仕事にでしゃばるのはよくない」と言っている。他人の仕事を奪わないというのはバガヴァッド・ギーターの3章35節にもある教えだけれど、このように読んでいくとタクメマはミラレパの思考停止からくるずるさを見抜けていない。よくよく読んでみると、そう見えました。マルパの近くにいるタクメマを利用して悟りに近づこうとするミラレパのずるさをあぶり出す重要な役割といえるかもしれません。マルパが密教の師たる<しるし>をあらわして見せたという場面も、まるでバガヴァッド・ギーターの11章のようです。


こうしてあらためて読んでみると、ミラレパの物語の特徴は「他者から受けとった他者への復讐をモチベーションにすればするほど、悟りから遠ざかる」「それを見抜く人と、見抜かない人がいる」ということを教えているところにある。特に後者の示しかたが、すごくよくできた物語なんだなと思いながら読みました。
グルの協力がなければ魂の成長はない、<しるし>はあらわれない。という密教の教えの理解を妨げるのは、「かわいそう」という気持ち。そしてその同情を利用しようとする気持ち。いまのわたしにはタクメマの行いがナチュラルな救いとは思えませんでした。
ここはフェミニズムなど考慮せず「女が感情的に仕事に口出しをしてきた。やれやれ」という見かたをするほうが本筋にあっているのではないか。そんなことを考えながら読みました。


▼この本です

チベットの聖者ミラレパ

チベットの聖者ミラレパ

 

 (値上がりしています。毎週のように練習でお会いしている人には私物をお貸ししますので、希望されるかたは練習後にでもお声がけください)

 


▼9年前の感想はこちら