以前紹介した「チベットに生まれて ― 或る活仏の苦難の半生」と同著者さんの本です。1970年の秋から1971年の春にコロラド州のボルダー市で行なわれた講義の本です。集まってきた弟子たちの多くが陥りがちな、修行バカの抱負と隣り合わせの混乱・誤解をメッタ斬りにしていく記録。
翻訳も素晴らしく、文章そのものの価値も高い一冊だと思います。図書館で借りることができました。返却期限が迫っているので、数日はこの本の内容紹介を続けていきます。
たまたまウパニシャッドと平行して転記をしていたので、タントラといわれるものについての解釈が相乗効果で深まった気がします。
これはあくまでうちこの解釈ですが
ヨーガ=心のはたらきをなくす教え
タントラ=心のはたらきを生きる知恵に転換する教え
と感じました。こう書くとヨーガがまるで発展途上のように見えがちですが、ヨーガにおいても「生きる知恵に転換する」教えを説いている人はたくさんいます。沖先生もそうですね。禅(ディヤーナ)にフォーカスを当てた語り口になると「心の止滅」にスポットが当たりがちだったり、空の思想に寄って語られたりするのだろうと解釈しています。
ただ、この本を読んで強く思ったのは
「マイナス1」を「0(ゼロ)」にするところまでではなく、
「マイナス1」を確実に「1」にしにいこうとしている。
タントラへの道には、そんな「覚悟」のようなものがうかがえるのです。
一般社会でしっかりと生きていく知恵がいっぱいです。
そして素晴らしいのは何といっても中段に「ユーモアのセンス」という章があるところ。この認識には引き込まれます。
入手困難な本のようなので、がっつりいきます。
少しページの順序を入れ替えたりしますが、まずはじめに。
<221ページ 菩薩の道 「エネルギー(精進)」より>
仏陀になろうと努力することをやめ、真に生を生きるときをもったこと、自分がノイローゼ的な心のスピードを超えたところにいることを自覚することには測り知れないエネルギーが潜んでいる。
「つながるって、すばらしい」とか「ヨガによってこんなことに気づけたわたしって、しあわせ」と、満員電車に揺られて通勤する人々や、事業などでお金の呼吸をしている人々を心で否定しながらつぶやきたいヨギのみなさんは、決して口当たりのよい本ではありません。
と予告しておきます。
そして、この本は各章に「講義」と「質疑応答」があります。
質疑応答も、容赦ないです。
<262ページ シューニヤター(空) Q&A より>
Q ─ 始めてしまったからには、やるべきことがあるのでしょう?
A ─ やるべきことはある。しかしあなたのすることは何であろうと、その瞬間にだけ関係しているのであって、未来において何らかのゴールに到達することには関係ない。そのことが私たちを瞑想の実践に引き戻すのだ。瞑想することは足をそろえて道に踏み出すことではない。それは自分がすでに道にあることを悟ること ─ まさにこの瞬間の中に自分を投げ出すこと ─ いま、今、現在がすべてだ。実際にはあなたは道を離れたことなどなかった。したがって、始めるということはありえない。
何かをはじめて「たのしい今の状況」だけを感じればよいのに、一瞬以降の過去の環境や状況を否定することをセットにしたい人にも、口当たりのよい本ではありません。
「警告本」はたくさんあり、ラマナ・マハルシ師なども分類上は近いところにあると思うのですが、この本の切れ味はハンパじゃありません。
修行時代の本と比較すると、当時のアメリカの本件周辺への実践と理解は、今の日本の「チャクラかじり」の100倍くらいテキトーだったのではないかと想像してしまう。まさにビートルズ以降のあのころだ。チャールズ・ミルズ・マンソンが死刑判決を受けた年。
以降はおおむねページの若い順に進みます。
<45ページ 帰依 より>
帰依の誤った道は、身を寄せる庇(ひさし)を求めようとすることだ。山、太陽神、月の神々その他あらゆる種類の神格崇拝は、単にそれらが自分よりも偉大なものに思われるからだ。この種の帰依は、子どもが母親を力と偉大さの典型と信じこみ、「ぼくをぶったら、ママに言いつけるぞ」という反応に似ている。
喩えも現代的で、とってもうまいんです。膝を打つ表現がこの後もどんどん出てきます。
<55ページ グル より>
(ミラレパの師マルパと、その師ナロパの話)(インドからチベットへ帰るときに使うお金代わりの金粉を残しておいて、師へ渡したマルパさんに対するナロパさん)
「おまえのごまかしでわしの教えが買えるとでも思っていすのか?ワッハッハハ……」
ここに至ってはマルパも降参し、金粉を残らずナロパに手渡さざるをえなかった。ところがショック! ナロパは袋をあけるやいいなや金粉を空中にばらまいてしまったのだ。
(中略)
「なぜわしに黄金がいるものか? 全世界がわしにとって黄金だ!」
それはマルパが自己を開く決定的な瞬間となった。
超☆挫折感による解脱系統。ミラレパたんの話ばかり読んできたので、マルパ親方もこんな目に遭っていたことを知り、見方が変わりました。マルパ親方の話は続きます。
<68ページ グル より>
人々が、宗教と世俗の矛盾を心配しすぎるところに問題がある。いわゆる<高い意識>と実際的なことがらを調和させるのは、非常にむずかしいことだと考える。しかし、人生への根本的に健全なアプローチにおいては、高い意識と低い意識、宗教と世俗というように分けること自体が無意味に思われる。
マルパは、人生のできごとのあらゆる細部に熱中することのできる、ごくふつうの人物だった。特別な人間になろうなどとは考えもしなかった。怒るときはただ怒り、人を殴りもした。何も考えずにただ殴った。他人の役を演じたり、自分を装うことはけっしてしなかった。それにひきかえ、宗教的な狂信者は、つねにどのようにあるべきかのモデルに従って生きようとする。自分が純粋な善人ででもあるかのようにふるまい、熱狂的に人々を説得して自分の側に引きつけようとする。しかし、自分が善人であることを証そうとする試みは、ある種の恐怖の表現であるように、私には思われる。マルパには証すべきことは何もなかった。彼はただ、健全で堅実なふつうの市民であり、同時に非常に目覚めた人物だった。彼はカーギュ派の父であり、私たちが学び、実践している教えは、すべて彼に源を発している。
「宗教と世俗の矛盾を心配しすぎるところに問題がある」のは、「特別でありたい優位性への期待」を宗教に乗せるから、そんなことになる。日本の場合は「宗教っぽい」ことを嫌う文化があるもんだから、耳障りのいい「スピリチュアル」が大人気だ。
マルパ親方は、たしかに「畑のオッサン」だった。でも、あそこまでミラレパたんを追い込める宗教心があった。マルパ親方の「バランス覚悟」こそ、現代人がとるべきヨガのスタンスではないかと思う。
「自分が善人であることを証そうとする試みは、ある種の恐怖の表現」とは、なんと的を得た表現だろう。侵略の歴史が色濃い西洋でのそれは、日本人の想像以上のものだろう。
<124ページ 開かれた道 より>
自分がやっていることは正しいと自分に言い聞かせようとする執拗な試みはあなたの心が非常に内向的な状態にあることを示している。自分自身とその状態を意識しすぎているのだ。自分は少数派であり、非常に桁はずれなことをしていてほかの誰とも違うのだという感覚。このように自分がユニークであることを証明しようとすることは、自分の自己欺瞞を正当化しようとする試みに他ならない。
これは、特に仕事の場面でついついやりがちだ。マネジメントの技法のひとつとして認識した上ではあるけれど、認識がない状態でやってしまっているとき、自分は内向的な状態なんだ。
<133ページ 開かれた道 より>
慈悲は、達成とはまったく無縁なものだ。慈悲は広大で非常に寛大なものだ。本当の慈悲をもつ人には、自分が人に対して寛大なのか自分自身に対して寛大なのか確かではない。なぜなら、慈悲とは「自分のために」とか「彼らのために」という方向をもたないひとつのいわば環境としてそこにある寛大さだからだ。それは悦びで満たされている。おのずと存在する悦び、そして測り知れない富と豊かさを含む悦びで満たされている。
慈悲とは、豊かさの究極の状態だと言うこともできる。それは貧しさの反対、欲の戦いの反対の状態だ。
(中略)
慈悲は自動的にあなたを人々と関わり合うことに誘う。なぜなら慈悲をもつあなたにとっては、人々と関わることはもはやエネルギーの浪費ではない。人々と関わる過程で、あなたは自分の富、自分の豊かさを確認する。つまりその過程で人々があなたにエネルギーを充填してくれるのだ。したがって、人々や生活の状況に対処するというむずかしい課題に取り組んでいても、あなたは自分のエネルギーが尽きるとはけっして感じない。困難な問題に直面するたびに、それはあなたに自分の富と豊かさを示すまたとない機会を与えているわけだ。人生に対するこのようなアプローチには貧しさの感覚がまったくない。
「人々と関わり合うことに誘う」場面に、うちこはまだまだ弱い。エゴの充填に「利用されている」と感じてしまうからだ。それは、「貧しさの感覚」だ。うちこは、セコいのだ。
<138ページ 開かれた道 より>
本当に意味のある記録は、いまという与えられた瞬間の記録だけだ。つまり、いま、本当のコミュニケーションと開放が実際に起こっているかどうかということだけが問題なのだ。
これが開かれた道、菩薩の道だ。菩薩は何ごとにもこだわらない。たとえあらゆる仏陀から彼こそ世界中で最も勇敢な菩薩であることを証すメダルをもらったとしても、いっこうに気にかけない。どの聖典にもメダルを受け取った菩薩の話など書かれてはいない。菩薩には何を証す必要もないがゆえに、それは当然のことなのだ。菩薩の行為は自然に起こるもの。それは開かれた生であり、戦いやスピードにとらわれることのないコミュニケーションだ。
自認の弁ばかりだけど「戦いやスピードにとらわれ」ていると思う。うちこは、セコいのだ。なんだかブライアン・ケスト氏ばりの否定が続くなぁ。自分。
<139ページ 開かれた道 より>
人々があなたから何かを求めているとすれば、それは彼らの問題だ。あなたは彼らの機嫌を取ろうとする必要はない。開くことは<あるがまま>でいることだ。あなたが気持ちよくあるがままの自分でいることができれば、開かれたコミュニケーションのできる環境はひとりでに生まれてくる。先に話した月と水の入った器の関係と同じことだ。そこに器があれば、それは必ずあなたの<月のような本質>を映し出す。器がなければ影は映らない。器が半分欠けていれば半分欠けた月が映る。それは器次第だ。月であるあなたはただそこに在る。開いている。器がその影を映すこともあれば映さないこともある。あなたはそれを気にかけもせず気にかけないこともない。あなたはただそこに在る。
器の大きさ、器のなかの水質、揺れ、ゆがみ……自分の問題。そして、「コミュニケーションのできる環境」の段階。険しいけれど、修行の道はいつだって目の前に開かれている。
<152ページ ユーモアのセンス より>
ユーモアのセンスは、あらゆるものに充満する悦びから生まれるように思われる。その悦びは<これ>と<あれ>との間の戦いに巻きこまれていない。したがって、完全に開かれた状況に広がってゆく余裕をもっている。その悦びは、すべてを含む場、開かれた場を見たり感じたりすることのできる広がりのある状態へ発展してゆく。その開かれた状態には限界もなく、強いられたしかつめらしさもない。人生を<深刻なビジネス>として扱ったり、人生のあらゆるものごとが重大事であるかのように、しかつめらしさを押しつけることの度が過ぎると、それはむしろ滑稽になってしまう。なぜそれほどの重大事なのだろうか?
以前「つぶやく人々について思うこと」という日記に少し書きましたが、ものごとを「コンテンツにする力」というのは、これに似ていると思う。コンテンツ力というのは、生み出された「もの」の力で、ここで言っているのは「コンテンツにする力」のこと。ひとつの題材を<深刻なビジネス>にする行為はこの反対のことであり、集団で「俺たちって、すごい」に転換する行為は集団自殺的だ。マネジメントの技法の王道ではあるのだが、それが集団自殺の先導者になるのかビジネスマンになるのかの境界に「ユーモア」があるのだと思う。
<170ページ エゴの発達 より>
エゴの発達のはじめの段階では、根源的知性は感覚における鋭い直感として働き、のちには知力として機能する。実際には、エゴなどというものはまったく存在しないように思われる。「私がある」ということはないのだ。それは多くのものごとの堆積にすぎない。いわばすばらしい芸術作品であり、知力が「これに名前をつけよう。何と呼ぼうか? そうだ『私がある』と呼ぶことにしよう」と言いながら巧妙に作りあげた産物なのだ。<私>とは知力の産物であり、散漫で混乱したエゴの展開全体をひとつにまとめるラベルなのだ。
「そうだ『私がある』と呼ぶことにしよう」「エゴの展開全体をひとつにまとめるラベル」の説明は、本当にすごいと思う。「あるがまま」を超えたところにあるタントラの教えは、最後のほうに出てきます。
<202ページ 四つの貴い真理 より>
インドでもチベットでも、<精神集中>と呼ぶことのできるいわゆる瞑想法が発達してきた。この瞑想法は、心のコントロールと、集中をより効果的にするために、心の焦点をある特定の一点にしぼることにもとづいている。瞑想者はひとつの対象を選んで、それに視線を定め、考えを向け、心に描いて注意のすべてをその対象に集中する。それによってある種の心の静けさをむりやり発達させようとするのだ。私はこの種の修行を<心の体操>と呼ぶ。なぜなら、それは与えられた生の状態全体に取り組もうとはしないからだ。それは生に対する二元的な見方を超えるのでなく、完全に<これ>と<あれ>、主体と対象にもとづいている。
(中略)
<集中>の修行は、そう意図しなくてもエゴを強める働きをすることが多い。集中は心の中に特定の目的と対象を置いて行なわれる。そのため私たちの中心は<心>になりがちだ。花や岩やあるいは炎に心を集中することから始め、その対象を凝視する。しかし精神的には<心>に可能なかぎり深くはいりこんでゆこうとするのだ。現象のもっている固定的な側面、安定と静止の性質をより強調しようとするわけだ。長期的に見れば、このような修行は危険性をはらんでいる。瞑想者の意志力の強さに頼る修行は、あまりにも堅苦しく凝り固まり、またまじめくさった内向性を生み出しかねない。このような修行は、開放やエネルギーやユーモアのセンスをもつことの助けにはならない。修行者は自分に修行を強いなければならないと考えることから、非常に重苦しくまた独断的になりやすい。修行は深刻でまじめくさったものであるべきだと考えるのだ。これが私たちの心に競争心を生む。自分の心を束縛できればできるほど成功なのだという態度 ─ これはむしろ独断的、権威主義的なアプローチだ。
こんなうちこなのに、たまに瞑想についての質問を受けたりする。よくある質問のほとんどは「心の静けさをむりやり発達させようとする」ことができない状況についてだ。「そういうもんだから(エクササイズだから)」と回答するうえで「<これ>と<あれ>の範囲でのエクササイズだから」という説明は、今の自分には無理だなと思った。
そして、たまにしか話さないのに瞑想についての質問をしてくる人が「エゴを強める働き」についての危険性を知ることを求めていないことにも疑問があった自分の意識に気がついた。「もうこの質問してくる時点で、そもそも……」と。
「修行は深刻でまじめくさったものであるべきだと考えるのだ。これが私たちの心に競争心を生む」というのも、まったくよく目にする場面。「師はわたしにこんな試練を与えてくださった」と、自分を主語に書かれているなんとなく不快な文章には、「ユーモアがない」という法則にも気がついた。閉じた文章を世に出す行為は、ビジネスとして自分を商品化していることを認識してやるのが最低限のマナーであるように思う。めざせ、「読むクスリ」。
<217ページ 菩薩の道 より>
感情を私たちの身体の筋肉と考えるなら、とりとめのない思考は、それにたえず養分を送っている血液循環にたとえられるだろう。
(中略)
思考と感情は、社会に対する私たちの基本的な態度と関わりかたを表わし、私たちが住む幻想の世界という環境をかたちづくる。
マーヤのしくみの説明として、こんなにも現代にフィットした洗練表現をこれまでに見た事がない。著者さんはこのあとヴィパシュヤナ(いわゆるヴィパッサナー)の瞑想の話に入り、「ヴィパシュヤナは空間=緻密さの起こる周囲の空気を意識することに関わる瞑想法」という解説を添えています。
この「周囲の空気を意識することに関わる瞑想法」というのも素晴らしい分解解説力だと思いました。
<221ページ 菩薩の道 「寛容(布施)」より>
コミュニケーションはいらだちを超越しなければならない。さもなければ、茨(いばら)の茂みに快適な寝床を作ろうとするようなものだ。
色彩やエネルギーや光の中に沁みとおる外の世界の性質が私たちに向かって押し寄せ、茨のとげが肌を刺すように私たちのコミュニケートしようとする試みの中にはいりこんでくる。私たちはそのひどいいらだちを鎮めようとし、それによってコミュニケーションは妨げられてしまう。
(中略)
「いや、いや、これが自分をいらいらさせるのだ。消え失せろ!」と叫ぶ私たちのいらだちによって、外の世界はただちに拒絶されてしまう。
これは超越した寛容さとは正反対の態度だ。
菩薩はいらだちや自己を守ろうとすることを超越して、寛容という完全なコミュニケーションを体験しなければならない。さもなければ、とげが自分を刺そうとしているとき、私たちは自分が攻撃されているのだ、身を守らねばならないのだ、と感じてしまう。私たちは自分に与えられたすばらしいコミュニケーションの機会から逃げ出してしまい、川の向こう岸をながめるだけの勇気すらもたなかった。うしろに目を向けて逃げようとばかりしているのだ。
意識が細密化すると、ここまでの表現ができてしまうのかと驚くばかり。
「川の向こう岸をながめるだけの勇気すらもたなかった」というのも、すごい表現。普段こういうことを伝えたい場面はあっても、なかなかこんな風にいえるもんじゃない。
<221ページ 菩薩の道 「知恵」より>
菩薩は、見張り人であるエゴをプラジュニャー・パーラミター=般若波羅蜜多に一変させる。プラ pra- は超、ジュニャー jna は、識ること、プラジュニャー Prajna(般若)は超越した知恵、つまりすべてを見る完全で正確な知恵を意味する。<これ>と<あれ>の上に固定された意識は切り払われ、そこから二層の知恵が生まれる。知るプラジュニャーと見るプラジュニャーだ。
「エゴ」のコンバート・ツールが「慈悲」なんですね。うーん。これでもアキバ系同僚にすら伝わらないな。
<232ページ 菩薩の道 Q&A より>
Q ─ もし他の人々との間に対立があり、その人々と関わりをもつのが困難な場合はどうしたらいいのでしょう?
A ─ (回答の一部)相手の考え方を自分の考え方と同じものに変えたいという衝動に逆らうのが非常にむずかしいことは、私たちがしばしば経験するところだ。しかしこちらからのコミュニケーションがあまりに相手の重荷になりすぎないよう、注意しなければならない。そのためにできることはただひとつ、どのように空間と開放を供給するかを学ぶことだ。
「どのように空間と開放を "共有" するか」ではなく「供給するか」であるところがポイントです。世の中のコミュニケーション・スキルアップ術では「共有するか」にフォーカスがあてられ、そのメソッドは「共有してる感の演出」の技法ばかりです。そこに、意思はないのです。気をつけて。
<235ページ 菩薩の道 Q&A より>
Q ─ 状況が攻撃的な行為を要求することもあるのでしょうか?
A ─ 私はそうは思わない。攻撃的な行為というのはふつう自分を守ることにつながっているからだ。いまの状況にあることを正確にとらえているなら、けっして手に負えなくなるということはない。だから状況をコントロールする必要も自分を守る必要もない。
「状況をコントロールする必要も自分を守る必要もない」の境地は、世俗の社会生活がものすごくよい道場であると思う。そしてこの質問者のように「攻撃的な感情が生まれること」について向き合おうとしている人たちが、このブログの常連読者さんたちであり、同士なんだろうと思うよ。らぶ。
<270ページ 知恵と慈悲 より>
タントラは知恵(プラジュニャー)のたえまない体験とわざとらしさのまったくない慈悲の道だ。しかしまだ自分の知恵と慈悲に気づき、自分の行為をチェックしたり評価するいくらかの自意識がある。
「いくらかの自意識がある」ことが、本当の「健康」なのではないかと思う。そして、「"ノイローゼ状態"という健康の瞬間もあるのかもしれない」という深みにハマってしまった。チェックのしかたや、評価のしかたの違いなのだろう。
<277ページ 知恵と慈悲 より>
真の慈悲が本来そなえている性質は、純粋で大胆な開放であり、領域というような限界をまったくもたない。隣人に対して愛をもち親切であろうとする必要もないし、人々と楽しげに話し、すてきな微笑を浮かべている必要もない。そんなつまらないゲームは通用しない。(中略)慈悲とは大人としてのあるがままのあなたでありながら、一方で子どもらしさを保っていることだ。仏教では、先にも話したように、空にひとり輝きながら、同時に百の器の水にその影を映す月を慈悲の象徴とする。月は「もしお前が心を開くならば、こちらも好意を示してお前を照らしてやろう」などという条件は一切つけない。月はただ照らす。大切なことは誰かのためになろうとか、誰かを幸福にしてやろうという欲望をもたないことだ。
「そんなつまらないゲームは通用しない」には激しく共感だ。交流の瞬間を作ることよりも「作ろうとして実行した」というわざとらしさは、たしかに子どもにはないものだ。大人に言われてやることはあっても。
そしてこの月の話はほかでもよく出てくる喩えだけれど(太陽のときもありますね)、本当によい喩えだと思う。
<284ページ タントラ より>
マハーヤーナ(大乗)仏教の教えはプラジュニャー=超越した知恵を培うことを根底としているのに対して、タントラの教えの根底はエネルギーに取り組むことに結びついている。ヴァジラマーラ(金剛蔓)の『クリヤーヨーガ・タントラ』の中ではエネルギーは次のように描写されている。「あらゆる生あるもののハートに宿るもの、独自に存在する単純さ、そして知慧を支えるもの。この滅びることのないエッセンスは、大いなる悦びをもたらすエネルギーであり、空間のように偏在する。それはどこにも安住することのない法身(ダルマ・ボーディ)なり。」
ダルマ・ボーディを「エッセンス」と言われると、なんとも素敵な感覚で沁みてくるから不思議です。そのまま「エネルギー」と言ってしまうから、エゴの発達に利用されてしまうんだ。みんな、お金と同じように欲しがるからね。
ここから、タントラの教えの濃い部分に入っていきます。
このへんまで読んでから、これまで自分が触れてきたヨーガ密教の教えとのちょっとした違い(冒頭に書いたプラスとマイナスとゼロの数字の話)を意識することになりました。
<285ページ タントラ より>
タントラではエゴを超えることなどまったく問題にしない。それはあまりにも二次元的な態度だ。タントラはそれよりももっと精密なものだ。
それは<そこに至る>とか<そこにある>ことの問題ではない。タントラの教義はここにいることを説く。それは転換について語り、錬金術にたとえられることがしばしばある。例えば鉛の存在を否定するのではなく、それを金に転換するのだ。その金属としての本質を変える必要はまったくない。ただそれを転換しなければならないのだ。
タントラという言葉は、法、道と同じ意味をもつ。タントラの修行は、エゴを転換すること、そして私たちのもっている本来の知性が輝くことを可能にする働きをする。タントラとは「継続すること」を意味する。
「ただそれを転換しなければならないのだ」の教えは、ミラレパの生涯そのものだと思う。それが、自分のエゴではなかったところに端を発しているところが、ミラレパの話の奥深いところだ。
「継続すること」とは、ゴールを求めないことというよりも、「ゴールの存在を意識することをあきらめること」といったほうがしっくりいくかもしれない。
そしてここで、少し前の章にあった問答を紹介します。「あきらめかた」について説かれているように思うのです。
<265ページ シューニヤター(空) Q&A より>
Q ─ サマーディ(三昧)やニルヴァーナ(涅槃)はシューニヤターの考えとどのような関係があるのですか?
A ─ 言葉に問題がある。両方の間に違いがあるというよりも、ただ強調するところが違うのだ。サマーディは完全に没入してしまうこと、ニルヴァーナは自由、そしてともにシューニヤターと結びついている。シューニヤターを体験するとき、私たちは主体 ─ 対象の分離を離れて完全に没入している。また混乱から自由になっているのだ。
うちこはこの問答を読んで、言葉を求めることも、「あきらめきれていない」ことの象徴的な行為なんだな、と思ったんです。「同じことですか?」「関係がありますか?」「〜の境地を経験したことがありますか?」。特に最後の「経験」への問いなどは、背筋が寒くなる。
インド以外の国の人が、インド人にその質問をしている場面に出くわしたことが何度かありますが、こういうときにもこの回答のように対応するのが「慈悲」なんですね。有名どころの聖者はこぞってこの「覚悟」がすごい。
「慈悲」と「覚悟」もまた、強調するところが違うだけのことなのだろうな。
<287ページ タントラ より>
教えというものはそれを実践するものの日常生活に結びついていなければならない。他の人々や世界と関わることから起こる思考や感情やエネルギーに面と向かっているのだ。生のエネルギーの側面を認めることなくして、どうしてシューニヤターの悟りを日常生活に結びつけることができるだろう? もし生のエネルギーとダンスすることができないならば、シューニヤターの体験によってサンサーラとニルヴァーナを結びつけることはできない。タントラはエネルギーを抑えつけたり破壊するのでなくそれを転換することを教える。言いかえればエネルギーのパターンに調和して生きるのだ。
エネルギーに調和したバランスを見いだすとき、私たちはそのエネルギーと知り合いになりはじめるのだ。私たちは正しい方向をもった正しい道を見つけはじめる。これは私たちが酔った象やどうしようもないワイルドなヨーギにならなくてもよいことを意味する。
「転換」を「わざとらしい行為」ではなく「エネルギーのパターンに調和して生きる」とさらりと述べる。そしてそのあとの表現はとてもやさしい。この本の表現の中でやさしさを特に強く感じた部分でした。
<308ページ タントラ Q&A より>
Q ─ もし何かに脅かされて、その恐怖に強い反応を起こしたとき、その反応に気づいているがその中に自分を失いたくない、自意識を保っていたいとします。どうしたらよいのでしょうか?
A ─ まずそのようなエネルギーがあることを認めることが大切だ。それは跳ぶためのエネルギーでもある。言いかえれば恐れから逃げ出す代わりに、その中に完全に没入して、その感情の荒々しい粗野な性質を感じることだ。
「荒々しい粗野な性質」について解説された部分が別途あり、「跳ぶためのエネルギー」を五つに分けて説明してくれています。ここは別立てで紹介したいので、後日書きます。
<309ページ タントラ Q&A より>
Q ─ 戦士になるのですか?
A ─ そう。最初は感情の不合理を見るだけで私たちは満足するかもしれない。それによって感情は分散される。しかしヴァジラヤーナ(金剛乗)の転換の原理が感情の上に働くためにはそれだけではじゅうぶんではない。<色は色なり、空は空なり>の視点から先入観を混じえることなく自分の感情を正確に見ることができるならば、つまり自分の感情の赤裸々な性質をひとたびありのままに見ることができるならば、跳ぶ準備ができたと言うことができる。たいした努力をしなくてもよい。あなたはすでに跳ぶためにそこにいるようなものだ。これはもし誰かに腹が立ったら出かけていって彼を殺すということではない。
これは「バガヴァッド・ギーター」を想起させる問答。「感情の不合理を見るだけで満足」が初期段階に置かれていて、「自分の感情の赤裸々な性質をひとたびありのままに見る」が次の段階にあります。うちこも日々、何度もこのグラデーションの右と左を行ったり来たりしているのですが、跳ぶ準備ができたなんて感じたことは一度もありません。でも、この作業をするのとしないのとでは、毎日の瞬間はすごく違う時空間になると思う。
ただでさえ「なげーよ!」と身近な人によく言われるのに、今日は過去最大文字数になってしまったかもしれません。
この本は、チベット密教の教えを通して、ヨーガについてあらためて多くのトラップを認識するきっかけになりました。
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★このほかチョギャム・トゥルンパ氏の本への感想は、こちらの本棚にまとめてあります。