うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

知り合いであることを示さずに褒めるのはステマ的?

ものすごく数は少ないですが、読んだ本や行ったお店について書くときに知り合いであることを示さずに書くことがあります。書いても相手がわたしを認識できないと思うとき(ヨガをしていることを知らない場合)は書きません。本については1000件以上書いているので、全体の1%くらい。12年間で15冊未満なので年に一冊あるかないかくらいです。
5年ほど前までは、本やCDの作者・制作関係者から予告なしに制作物をもらったり結果的に食事をごちそうになった(最後に払わせてもらえなかった)ことが年に一度あるかないかの頻度でありました。トータルで5回。ブログに書かなかったのでそれを期待をしていた人からはがっかりされたのかもしれませんが、「あれはいつ書いてくれるのかなぁ~?」と突然催促されて驚いたのは5回のうち一度だけです。

 

作者から事前連絡とともに著作をいただき、読んで紹介したこともあります。ヨガ講師をされているかたの出版物です。数年前に芸能人のステマステルス・マーケティング)騒動があったので、「作者から本をいただいた」と書きました。本以外のものはいただいていないのでステマ以前に無報酬なのですが、いちおう記載しました。
かつての仕事仲間がなにかの専門家(ほとんどがIT系)として本を出したときは買って読むことが多いです。ああいう口調の人が文章になるとどんな文体になるのかな~、という興味で読みます。ライター・編集者・出版社との相性が見えたりして、知っている人の本というのはおもしろいのです。


知人・友人が経営するお店やサービスについて書くこともあります。だいたい旅行記の中で登場します。近くへ行けば立ち寄るので登場します。そのときも、ここには関係の詳細を書きません。
友人のお店の場合はGoogleの検索結果上位によい情報がないとつい頑張って書いてしまいます。スタッフ気取りか! と自分でも思うのですが、協力したいという人情が発動します。


数年前までは、なにかと関係性をできるだけ書いていました。なぜか知らないけれど書かなければいけない気がすることがたまにあったのです。書く必要なかったのにな…、と今では思います。
それをしなくなったのは、多くの人が自分で発信するようになったここ3年くらいの発信母数の変化が少なからず影響しています。

 

 

 知り合いだけどそれを示さずに褒めるのがステマ的であるとするなら、
 知り合いは褒めるものだという強制力が存在しているということ?

 

 

すばらしいと思うときほど、その人の努力の蓄積を思えば思うほど言葉を吟味して関係性を明かざすに褒めたいと思うのが人情と思うのだけど、論理的には説明できません。説明はできないけれど、わたしはこういうひねくれた(?)人情を持っています。


いまは多くの人が発信する時代になっているけれど、突然告知を催促されるとえげつないと感じます。わたしのように一瞬広告ビジネスの感覚を発動させ「無料掲載依頼をマイルドにされている」と意識を言語化できればしれっと流せるけれど、モヤモヤした思いを処理できずに自分が自意識過剰で不寛容なのかと悩んでしまう人って、意外と多いのではないかな。セクハラを受けた人が、自分が自意識過剰なのだとか自分に隙があったのだと思考処理するように。


こういう流れで自分を責めるのは、とても疲れます。それさえなければとてもよい、あるいは普通の関係だったわけなので。実際わたしはそれで交友関係を狭めました。そういうことが年に2回以上起こりはじめる前のこのブログは、コメント欄をフルオープンにしてほぼすべてのコメントに対して翌日には返信をしていました。

告知活動をじわっとねだられることが年に2回って、有名人にとってはめちゃくちゃ少ないだろうけど、一般人のわたしにとっては多いと感じます。だって基本イメージがゼロなんだもの。びっくりしたら鎖国もしちゃう。

 

そんなこんなから数年が経ち、いまやブログはレガシー・メディア。告知はSNSでそれぞれがやる時代になりました。InstragramやFacebookのフォロワーの多い人にとって、こういうことはご近所レベルで(選挙が近くなると連絡してくる人にモヤモヤするのと同じくらいの一般度で)増えていく悩みになるかもしれません。もうなってるのかな。