うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガで性格は治るか

「痩せますか?」「姿勢が良くなりますか?」と同じような感じで、質問したいけどできないと思っている人の多いであろう「ヨガで性格は治りますか?」(ヨガで性格は変わるか・変えられるか)という問い。
いつかゆっくり書こうと思っていたことを、今日はじっくり書きます。これはヨガに沿った視点で書くと、すごく長くなります。ヨガクラスの前後にサラッとなんて答えられないというか、話せば長くなる話です。



 ヨガで性格は治るか



まず「性格」というのは、外から(=他人から)見た視点で使われることが多い語ではないかと思っています。
ヨガの場合は、細かい話なのですが「性向」という綴りのほうがフィットするというか、人間だけの世界で性格の善し悪しを語るような意味での「格」がないんですよね…。上昇したら「神格」とか「達人格(シッダの域)」という感じになります。
今日はひとつ図を添えます。同じ図が何度も出てきます。わたしの理解・頭の中の書き起こしの図です。

以前「日本式では三つの身体」というのを書いたことがあるのですが、ヨガでは輪廻思想がベースにあるので精神体(スピリチュアル・ボディ)、物質体(肉体、マテリアル・ボディ)というふうに分けて語られることが多いです。バガヴァッド・ギーターというインドで最もメジャーな聖典にも、このような表現がよく出てきます。
なんですが、日本人の日常にはそれがないうえに、もうひとつの体があります。世間体です。


なので、「性格」+「治る/治らない」ということになると、本人の中で世間体のことを指している場合に、どうにもなりません。他人の評価だから。日本人同士の人生訓での対応になってしまう。そうするとベースは儒教に寄っていくことになるので、インドの思想からは離れた感じになります。
なんというか、「そのままでいいのよ」「考えすぎないで」「そういうことも、あるよ」とか、まぁそういう方向でゴニョゴニョ話しているうちに孤独感を軽減しておわり。まぁ、寄り添いですね。それでもじゅうぶんなのかもしれませんが、また不安は解凍されます。
困ったね。どうしよう。こういうとき、わたしもいっしょに困っています。



── わたしが「困る」というのは、こういうことです。
ほんとうにこういうところもヨガ的な考え方でいくとすると、「考えすぎないで」というよりは「もっとじっくり考える」とか「正しく見る」という感じになるのです。なんというか、きびしいの。
なので、わたしはいつも困るのです。だって目の前で困っている人は、日本人のふつーのおねえちゃんに相談をしているわけで、「あなたはそのままでいい」と言ってほしいことのほうが多いのではないかと思うのです。わたしは色白で顔も淡白で、インド人とはほど遠い存在ですが、ヨガに関わっている時間はわりと根っこからヨガの思想にいつも入ろうとしています。自分を支えてくれると思える思想に出会えたのが、はじめてだったから。


そんな複雑な心境のわたしが、今日は長く書きます。
一度きいてほしいのですが、「正しく見たのか?」というアプローチは親しむとすごくやさしいというか、こんな考え方があったのか! と思うところがあって、とても寛大なものです。
もう一度、さっきと同じ図を出しますね。

下の人間を見てください。なんかちょっとET風ですが、人間ですよ。
世間体の中で生きる人には、身体と精神がある、という心身のところの人間。
インド思想では、肉体は魂の乗り物と考えます。で、乗っている間にも乗り方というか、いろんな状態があります。
ここは他人を見ているような感じのほうがわかりやすいので会話ふうに書くと

  • 「この人、イビキうるさーい。ツンツンしても、起きないー。もー。自分のイビキで起きないのかなー。耳きこえてないのー?」
  • 「この人、死んだように寝てるけど・・・。生きてる?! ああよかった。心臓はうごいている」
  • 「この人、起きて喋ってるのに、現実が見えていないのかしら。おかしなことを言っている…」

と、こんなふうに、体と意識の掛け合わせにもパターンがある。
これらをインド思想では「覚醒位」「夢眠位」「熟眠位」などと分類しています。人のいろいろな「状態」を、脳・知覚器官(目鼻耳舌皮膚)・心臓のそれぞれの関連性で分解して、ああでもないこうでもないと探求してきた。そういうやりとりが、古い書物に記録されています。


そして、夢とか妄想とかそういう得体の知れない想念について、インドの賢者たちはこんなふうに考えました。
上の図の、頭の横にある「did」→「memory」のところを見てください。
ひとは知覚器官(目鼻耳舌皮膚)から得た情報を、脳に記録するときに

  • 印象付け(印象を刻むとか、焼き付ける、の機能)
  • 記憶を保存する

ということをしていると、そういうふうに考えている。
「記憶する」とひとことでいっても、なにか印象付けをしているよね、と。



たとえば同じ景色を見たとしても、人によって印象の刻みかたは違っていて、それはストックしてきた記憶に左右されます。
赤ちゃんには記憶のストックがなく、そこで過去の経験との紐付けをしようにも、できません。なのに、ちゃっかり好き嫌いをしたりします。でもそれすら、潜在記憶や潜在印象などといって「前世でストックしてきたのだろう」と考えます。輪廻思想があるのでね。インド人ね、インドの話ですよ。
わたしはここが、しつけや遺伝のせいにしないところが、すごくいいと思うんです。世間体はさておき、精神体(こころ)と物質体(からだ)の関係性に、自分以外の人間が介入できない部分が、確固としてある。



この流れをふまえていうと、「性格は治るか」といったときに対処法としてできることは、「ありのままに記憶を刻むこと」くらいになります。なにか経験をするときに、自分のハードディスクから引っ張り出してきた情報を紐付けて脚色しないこと
でもこれ、日常的にけっこうやっています。たとえば衝動買いをしたいモノを見つけたとき、「欲しい」という欲の力を助けるように購買に前向きなストーリーで「見たもの」からの情報を筋立ての根拠に使おうとしてしまう。ときには、これはわたしの尊敬する人も持っているものだからよいものだということにしたりして、他人の記憶まで使おうとします。
恋に落ちるときだって、先に好き嫌いがあって、情報を記憶・保存するちょっと手前で自分の中のいがらしゆみこを発動させて、なんかしてますでしょ。わたしの場合は日常的にさくらももこ鳥山明が介入しがちなのであまりそういうことはないのですが、ここで介入する「性向」によって、ちょっと世の中をナめた目で見てしまうところがあります。



── わかってきたかしら。
ここで登場する漫画家のような存在が、インド思想でいう「性格」に匹敵する部分というか、「印象の刻み癖」です。



 ありのままに記憶し、保存する



これは、すごくむずかしい。ここに、性格を治すことのむずかしさがあります。
「ねえねえ、この記録のしかた、あってます?」なんて他人に聞いたら、その人の認識の色に染まります。
ただこれは練習によって、鍛えることができます。「それ事実?」「根拠は?」「証拠は?」「相手の認識は?」「相手の背景は?」「だれかの真似してない?」「わたしいまから確認しに見に行くけど、いいよね」というような別の人格を、自分のなかに置く。そうすると、曖昧なことを自分自身に対して言えなくなっていくので、自分に自分が信用されるようになっていきます。
この延長で他人から信頼されるようになった頃には、外から見た基準での性格のことなんてどうでもよくなっているかもしれません。



 性格を治したい=認められたい、好かれたい



自分の悩みは、これだったのかな…と、そういうふうに思えるようになる。
すると、次には「その相手は誰? 誰に認められたいの?」「誰に好かれたいの?」と、自分の欲求を具体的に掘り下げていくことができます。



・・・と、こうやって長く書くと、わたしの話も、まあ聞けますよね。
でもいきなり「ヨガで性格は治せますか」ときかれて、「性格を治したいというのは、誰かに認められたい・好かれたいってことですか?」とわたしが確認しようとしたならば



 そういうことじゃなくて…、
 自分を好きになりたいんですっ☆



とかいう展開になる。ならない? ならなければ、ここでやめてもよいのだけど。
でも「自分を好きになる」というフレーズだって、どこかから拾って来た、他人の意識の引用かもしれません。オリジナルの感情と言えるだろうか。悩んでいる時点で、じゅうぶん好きになれていると思うのだけど、どうかな。
わたしの考えでは、自分のことはそんなに好きにも嫌いにもならなくていいというか、精神は肉体の中に住んでいるから、やっぱり身体の機能に引っ張られます。数時間後には「おなかすいたー」ってなって、そこを埋めたいという考えが優勢になる。
インドのヨガの達人たちは、あるいはインド思想の哲学者たちは



 そんな動物としての自分のことよりも、
 欲が沸いてくるエネルギーのありかとか、
 心臓のほうが大事だよね



となって、その不思議を探求し、ハタ・ヨーガという技術の開発をしました。
もう一度、さっきと同じ図を出します。

この、ハートの上下の赤い線のところが、一般的なヨガクラスで身体を動かしたりするところでやっていることです。
心臓を動かしているのは自分ではないよね、ということをありありと認識したり、欲の「パワー」の出どころって、脳ではないよねというところを掘り当てた思想がベースにあります。
でも日本の社会では輪廻思想が一般的ではないのと、「シューキョーっぽい」というネガティブなイメージがあるので、そこについては感覚を共有する機会をオープンには作り出しにくい。世間体も、身体の一部だから。



もともと、あまり人間だけの社会での世間体のほうに、理論として向いてないんですよね…。ヨガは。
生きものの一種としての肉袋に、なんか妄想できちゃう脳という機能を積んじゃってるよねー、人間のわたしたち。みたいな感じなのです。



 外部から得た刺激を
 ネガティブな記憶にいちいち紐付ける癖をやめたい



そういう意識で日々を過ごし、たとえばオレオレ詐欺のようなものに騙されない程度に確認を怠らず、歪んだ根拠で他者を恨むことなく暮らしていくことができれば、べつにヨガの練習なんてしなくてもいいっちゃいいのかもしれないと、わたしもよく思います。
でも、続けています。なんでやるか。ここはわたしの体感なのですが、身体の運動は、この紐付け作業を静止させるのに有効です。脳内での紐付け作業のカロリーを奪ってくれる。
そしてそれを他人と共有するのも、すごく楽しいのです。いまこの瞬間、紐付け作業をしていないもの同士が「わー」と肉袋を曲げたり転がしている空間にいると、ポジティブなエネルギーに包まれているから、そっちに引っ張られる。自分の抱えていた "小さな世間" の枠を、壊すことができる。
ただそれだけのことです。



ただそれだけのことじゃ、だめかな。つまらない?
でも



 それをつまらないといってしまうあなたは、神になりたいの?



とまあ、そういうことなのです。
なんかつらそうだね…、というのはわかるのだけど、人の頭の中の記憶って、他人には消せないんですよね…。
だから物質的にそれをやろうとして、薬物やアルコールが欠かせなくなってしまう人もいる。
わたしは、ヨガの達人たちはそれをハタ・ヨーガでやろうとしたのだろうと思っています。