うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

あ・れ・も・ヨガ♪ これもヨガ♪ と愛の水中花状態であった十数年が過ぎて

ここでヨガのことを書くようになってから14年になります。うわぉ。わたしはヨガをはじめて1年くらいの時にブログを始めたので、そんなにヨガ暦と差がありません。
そしてこれは2年前くらいから感じていることなのですが、あらゆるプラクティカルなことへの「ああ、これもヨガと同じだ!」という反応が自分のなかで以前のように強く立ち上がらなくなってきました。日常に織り込まれてきた感じでしょうか。


この意識の定着と重なるように、あるいは過去のパターンを押し出すように、本を読んだときに感じることの掘り下げ方やアウトプットのありようが変わってきました。
いまはどんな本を読んでも、自分のフィルタを通して何が出てくるか楽しみ。自身の邪悪な感情も含めて楽しみになっています。読みながら自分のスタンスをまったく操作しなくなり、名作もアホのまま(=素のまま)読める。そのほうが自分から出てくるものを観るのがおもしろいので、できるだけ事前に情報を得ずに読むようにしています。本屋へ行っても帯も解説も読みたくない!

 

わたしはいろんな情報を捻じ曲げて認識して読んでいると思うのだけど、むしろそれを確認したい。読む前から気持ちを事前に他者へあわせに行くなんて損だと考えるようになりました。
これは、自分の中から出てくるものを怖がらなくなってきたということかもしれません。

 


本をずいぶん楽しそうに読んでいるねと友人から言われたり、ヨガクラスの前後にわたしがここに書いたことがおもしろかったと話してくれる人がいる。そんな日々のコミュニケーションの効果も絶大です。あの本をそんな視点で読んでなかった。もう一回読んでみるなんていわれると、とてもうれしい。

 


自分の中から出てくるものを怖がらないというのは、瞑想の練習におけるメンタル面でのひとつの段階と似ています。

 

 

 自分の中から出てくるものには、

 なかったことにしたいものも、当然、含まれる。

 

 

年末年始に、この恐怖を存分に描いた小説を読みました。


主人公は om という聖音も祈りも見下している。この設定が、すごくおもしろいなと思いました。自分の中から出てくる不都合な類推に立ち向かう思考のありようだけで一冊の名作になっている。終盤では、それが戦争の足音への向き合いかたと重ねられていました。

こんなむずかしそうな本、十数年前はまったく読める気がしなかったので、読めたことがうれしい。


不都合だらけの人生のなかで、自分で自分を乗りこなす知恵としてヨガがある。あ・れ・も・ヨガ♪ これもヨガ♪ と、つながりを見つけては自己肯定感を高めてから騒ぎをする時期を終え、ヨガを大人っぽく味わうフェーズに入ってきたということでしょうか。

愛の水中花も大人っぽかったけどね(その大人っぽさとはちがーう!)。

愛の水中花 [EPレコード 7inch]

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