うちこのヨガ日記

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空海「秘蔵宝鑰」 こころの底を知る手引き 加藤純隆・加藤精一 翻訳


まえに感想を書いた「三教指帰」と同じ翻訳シリーズ。
読んでビックリのおもしろ小説「三教指帰」は20代の頃に書かれたものでしたが、この「秘蔵宝鑰」は50代のときの著作。著作そのものについては「空海の著作ペディア」での解説が詳しいです。
これを読むと、漢訳で仏教やインド哲学を学んでいた空海さんの感覚がびしびし伝わってきます。今はインド人が英訳したものを読める時代ですが、平安時代にここまでインド思想を広く網羅して学んでいたことに驚きます。
すっかりインド六派哲学の人という感覚でいましたが、そもそも空海さんは仏教の人で(笑)、この本では仏教の立場から他派を批判していく「ちょっとめんどくさいおじさんになってしまった空海さん」のコメントを現代語訳でたくさん読むことができます。

 またある人たちは牛の真似や狗(いぬ)の真似をするなどという戒を守って、それが天に生れる道だと考え、あるいは神聖なガンジス河で死ぬことが天に生れる道だとして投身、入水したりしていますが、こうした間違った考え方や宗教は無数に存在します。これらを邪険といいます。
(第一章 異生羝羊心 「第一住心の人生観と世界観を批判する」より)

そんな、邪険にしなくても!(笑)。以下は、さらにすごい。



物の名前と実物が混同され誤られている例はまことに多いのです。それゆえ、古代インドの勝論外道(ヴァイシェーシカ)や数論(サーンキャ)の人々が、自分たちの教えをいうのに諦という仏教の重要な言葉を用いたり、梵天那羅延天などの神々を崇拝する人々が自分たちの帰依の対象に仏陀とまぎらわしい名目を用いたりしているのです。
(第四章 唯蘊無我心 「本物とにせ物の区別」より)

当時の中国の漢訳仏教の学びではあたりまえだったのかも知れないけど、空海さんが「勝宗十句義論」「金七十論」にツッコミを入れているという事態に、やはりすごい人だったのだなとあらためて思う。サーンキャの場合は「tattva」が「諦」と訳されており、空海さんの指摘を現代っぽく言うと「そんな、機能や成分をカウントするような感じで使う"原理" と 、悟りへ向かう道筋としての "真理" じゃ、まったく意味がちがうのに!」という感じではないかと思う。まあそうなんだけど、いまの感覚で言うと、なんかちょっとめんどくさいおじさんな感じがしなくもない。
三教指帰」を書いた20代の空海さんに感動していただけに、この空海さんは尊敬しつつも「あぁ、おじさんになっている」と、アイドルがおじさんになって政治に言及するのを見たような気分になった。




以下の「間接的な浄語」の説明はシビれます。

 彼ら比丘たちは、言葉も出家者にふさわしいはなしかたをします。彼らは「草を切る」とか「財宝を受ける」という場合にも、その直接的な表現を避けて、「これを知れ」「これを見よ」「これを与えよ」などと間接的な浄語を用います。次に、朝雲の流れるような美女や雪をめぐらすような麗人に出会ったときには、彼らは死尸(しかばね)の観想をして、心の平静を失わないようにします。
(第四章 唯蘊無我心 「修行の内容」より)

三教指帰」でも感じたけど、こういう説明が抜群にうまくて、実例を入れてくる場所や構成も、絶妙。




この本は最後に「十四問答」という物語が収められていて、問答形式の小説のような感じで、すこし「三教指帰」と似ています。ここで玄関法師さんという人にしゃべらせている以下が、たまりません。

国家の法律と仏陀の禁戒とは、事柄が異なっていますが、その意義については共通しています。いずれの場合もその法令をよく知って法に任せて制御していくならば、国家や教団への利益は甚だ多いのです。しかし、もし法を抂(ま)げて、私心にしたがって勝手に適用するならばその罪の報いは極めて重いのです。
 人々はこの意味をよく知らずに、法律を調べもせず、戒律を研究もせずにただ自分の愛憎にまかせて罪を重くしたり軽くしたり、あるいは犯人の身分にまかせて罪を重くしたり軽くしたりしていますが、こうした態度で世を治めようとすれば、後の世の報いをまぬがれることはできません。

山本七平さんかと思った。


夏目漱石の小説を読んでいると「明治時代から、日本人の感覚って変わっていないんだなぁ」と思うのだけど、空海さんの書物を読むと「平安時代から、日本人の感覚って変わっていないんだなぁ」と思う。


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