うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

朝の太陽礼拝の効果


ヨガの練習が習慣化する流れは人それぞれ。各個人がそれぞれの道を歩みます。わたしは昨年くらいまで「やらないと身体の変化に気づかなくなるから」ということが練習継続の理由でした。が、先日ふと別の理由が多くを占めていることに気づきました。
今年は猛暑。7月はいつもの時間にいつもの場所へマットを敷いてもギラギラしてくるのが早くて「太陽神の本日のご機嫌」をうかがう日が多く、以前よりも太陽との関係に意識的になりました。
それにより、わたしは毎朝のこの練習で



 世界に受け入れてもらえていると感じられること



に嬉しさを感じていることに気がつきました。漠然と、世界がわたしを仲間に入れてくれているような気がするのです。
太陽は自ら輝き、照らす対象を選ばない。子どものころから人の輪に入ることが苦手だったわたしのいじけマインドの種はいまでも油断をするとすぐに発芽するけれど、それでも朝にひとまず太陽に受け入れてもらえれば、ベースが満たされる。朝の太陽礼拝の効果って、これじゃないかと。
こういう感じは「ありがたさ」「感謝」「よろこび」というよりは、うれしいに近い。なんだろう。はじめて入る、ちょっと自分にはレベルが高いのではないかと思うようなお店に入って、「いらっしゃいませ」と言われたときの感じと似ています。



わたしはいま、ザ☆中年という年齢。職場ではなにごとも気にせず淡々とやっているように見えると言われたりしてきたけれど、それは表皮が重層的で固いというだけで、中身の種はずっとかわらない。黄色い花が赤く咲くことはないように。
「大縄跳び」は大人になったらやる機会がないけれど、「みんなで◯◯」「懇親会」などの音や色を帯びたものは、いまでも聞いただけで一瞬ブルーがやってくる。仕事だから表皮を着替えるだけ! と割り切ってやりはするものの、根本的にはいつも受け入れられないことを想定しているところがある。過剰に働きすぎてしまうのだって、先に貸しを作らないと安心できないから。「自ら輝く」への道はまだまだ遠い。



そういうところがあるわたしに太陽礼拝がどんな効果を与えてくれていたか、今年の7月のあのとんでもない暑さによって気づくことができました。
ほんと、ヨガは何年やっていても今さら気づくことがあるのだから、昔のインド人が考えたことはすごいよ…。
人生は旅であるよね。そしてヨガには方位磁石のようなはたらきがあるね。