わたしのヨガクラスは「そのドライさがウケる〜。ふざけてる〜」と言われたりするのですが、「もっと達人(シッダ)や特別なものが見える魔法使いみたいな話をして欲しいのに、うちこさんはそういう話をしたがらない」と、そんなふうに思う人もいるようなので、わたしのヨガへのアプローチが至極ドライな理由を明かしましょう。
わたしは20代の頃にスキーでコブ斜面を滑ってクラッシュし、短期的な記憶喪失をしたことがあります。(雪国っ子だからね、わし)
そのとき「ああ、頭ってこうなってるんだ。物理的に強くぶつけたら記憶はこんなにきれいに飛ぶんだ」という経験をしました。そのあとじわじわ記憶は戻ったのですが、そのときに意識の格納庫は物理的に「頭にあるのだ」と思うようになりました。コブ斜面で転倒(ビリヤードの玉みたいに2回くらいぶつかって跳ねる)をすると、頭だけでなく身体のあちこちを打ちます。ふだん五感の意識が向きにくい背面を強く打つと「身体の記憶」がかなり強いインパクトで刻まれます。「ああ、背中を打ったんだ」と、頭の記憶だけでなく身体の記憶もしみじみ感じたのを覚えています。
クラッシュしてしまうときのきっかけが、せっかく無意識で動けていた身体を頭で捕まえに行こうとする瞬間に起こるということも、この頃に学びました。意識が身体の手綱を強く引くと、ケガにつながる。ひとつのアクションに執着せず、流れでやるのがいい。
記憶を失ったときの多幸感も、少し記憶しています。
たくさんの人に「あなたは、わたしとこんなことをしたのよ。覚えている?」と声をかけられ、こちらには人を疑う気持ちがない。人を疑うほど記憶をたくさん持っていない子供の状態に、一時的に戻りました。そしてじわじわ、1.5日くらいでいつものヨゴれた大人の記憶が戻りました(お金借りてない人にお金貸してるって言われた!・笑)。
ヨーガの哲学を学ぶようになってから、この経験をよく思い出します。「記憶」のしかたにさまざまな悩みやつらいことの原因があるのだと、そういうふうに考える土台があると、スピリチュアルでピースフルなヨガ先生にはなりません(笑)。
たぶんこの経験が、頭の記憶、身体の記憶、意識とコントロールといったあたりの、いまわたしがヨガクラスの骨子としている部分になっている。
最近は「言語」の問題に取り組んでいます。サンスクリット語の世界は、「意識のはたらき」を示す語が多い。
わたしは、「言葉を多く知らないことによって意識が限定されてしまうことがある」と考えています。なので、日本語圏で生きてきたことによる足枷のようなものを外せるようにと、いつもそんなことを念頭においています。優れた日本の文学作品をインド哲学の材料に使うのも同じ理由です。(参考:サンスクリット語 → 英語 → 日本語)
わたしが思うに、本来ものすごく科学的で物理的で数学的なヨーガでも、わかりやすさを好む人向けに味付けを変えたものがあふれてしまうと、ほかの癒やし産業と区別がつかなくなる。「そうしないと食べないから」という背景があるのだとは思いますが、あまりに味を変えすぎかな、と思うこともあります。強い味は舌を麻痺させます。
わたしは味の薄いものがわかるようになるのが、微細な意識を認識できるようになる道がヨーガと考えているので、たとえ他者からドライだと言われても、「甘党の人は甘いものが好き。そんだけ」としか思いません。
fruits はドライのほうが甘みが増すんだぞー。